イチローの恩師を生んだ「テレビ観戦」 野村克也に見い出された“安打製造機”
「最終的に2000本ヒットを打つことが出来た、それが恩返し」
大学でプロ指名がなければ、卒業後は社会人野球の本田技研鈴鹿(現Honda鈴鹿)に進むことが決まっていたが、野村氏の“鶴の一声”で1974年のドラフト会議で南海から2位指名を受けてプロ入りを果たすことになった。
「子どもの時からの夢はこの時点で全てかなって、思い描いた人生を歩んでいた。プロ野球に入れたのは偶然、野村さんに見てもらっていたからだと思っています。南海でも試合に使って頂いた。一緒にプレーしたのは3年だけでしたが、最終的に2000本ヒットを打つことが出来た。それが恩返しだった」
1975年のルーキーイヤー。野村氏の肝いりで南海のユニホームを背負った新井氏。この年は前・後期制が採用されており、オープン戦こそ1軍に帯同したが、結果が残せずにファームで前期の開幕を迎えた。だが、2軍で打率3割をマークするなど徐々に結果を残すと、後期前のオールスター休みに1軍練習へ呼ばれた。
「何してんだ。俺が指名したんだから活躍してもらわないと困る」
大阪・中百舌鳥球場で野村氏から強烈にハッパをかけられた。この言葉を胸に新井氏の本当のプロ野球人生が始まっていくのであった。
(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)