イチローの恩師を生んだ「テレビ観戦」 野村克也に見い出された“安打製造機”

南海時代の新井宏昌氏【写真:共同通信社】
南海時代の新井宏昌氏【写真:共同通信社】

PL学園時代は主将として1970年夏の甲子園に出場し学校初の決勝に進出

 南海、近鉄で通算2038安打を放って名球会入りし、指導者としてもオリックス時代のイチロー、広島時代の丸佳浩などを育て上げた新井宏昌氏。プロ入りするきっかけを作ってくれたのが野村克也氏ならば、名コーチとして野球界に携わるきっかけを作ったのは仰木彬氏だった。今回、Full-Countでは新井氏が歩んだ野球人生を本人の証言を元に振り返っていく。第1回は「プロ入りのきっかけとなった野村氏のテレビ観戦」。

 卓越したバットコントロールはアマチュア時代から不変だった。新井氏は大阪・PL学園の主将として1970年の夏の甲子園に出場。学校としては春夏を通じて初の甲子園決勝に駒を進めたが、東海大相模に6-10で敗れて惜しくも準優勝に終わった。

「中学2年生の時に漠然と大学ノートに『高校で甲子園、大学は東京六大学』と夢を綴っていたんです。じゃあ甲子園に出るためには大阪で、どこがいいかと考えた結果がPLだった」

 身長174センチ、体重53キロと小柄ながら同大会では2回戦の銚子商戦で本塁打を放ち、準決勝の高松商戦では1試合5安打と快音を響かせ続けた。「3番・中堅」としてチームを引っ張り、当時の大会記録となる12安打をマークしている。

 全国の舞台で結果を残し、憧れだった東京六大学への道はグッと近づいた。第1目標だった早大を目指したが、当時は推薦制度がなく「今から勉強して行くのは無理だった」と断念。だが、当時リーグ3連覇を果たしていた法大からは甲子園で安打を重ねるごとに“条件”がアップ。「初めは2部(夜間)でとの話だったが、それが1部になり、今度はレギュラーが集まる合宿所に、とドンドン上がっていった。最終的には是非来てくれと」。夢の六大学入りを自らの力で勝ち取り、進学への準備を進めていたが、同年のドラフトで、まさかの事態が起きた。

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