元楽天・鉄平さんがプロになれた理由 小中学時代に経験した2つの“大きな転機”
中学でヘルニアに…投手を断念してショートに専念
プロ野球選手を夢見る子どもやその保護者に中日、楽天、オリックスでプレーした鉄平さんが「プロ野球選手になる方法」を伝授する連載「教えて! 鉄平先生!」。第5回のテーマは「プロ野球選手になれたターニングポイント」。大きな転機が2つ思い浮かぶという。
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1つ目は野手に転向したことです。小学生で少年野球チームに入ってから主に投手をしていました。ところが、中学2年生の時に練習で遠投をしていたら腰を痛めてしまいました。病院で検査を受けた結果、ヘルニアと診断されて、約3か月間体を動かせませんでした。この時に当時の監督が「このまま投手を続けたら、また腰を痛めて将来を台無しにするかもしれない」と判断。ショートに専念することになりました。
中学の監督は、私が進学する高校(大分県立津久見高)の野球部監督にも「投手はできるけど、おそらく腰がもたない。将来を考えて野手に専念させてほしい」と伝えてくれたそうです。高校の監督も私の将来を考えて配慮してくれました。もし、成長期の体に負荷をかけてヘルニアを再発させていたら、怪我で野球を続けられなかったかもしれませんし、高校時代にプロのスカウトの目に留まらなかったかもしれません。2人の監督には感謝しています。
早い段階で野手に専念できたのは、打撃技術を身に付ける面でもメリットがありました。もう1つのターニングポイントになるのですが、私は小学6年生の時、イチローさんに憧れて左打者に転向しました。最初は全然バットの芯にボールが当たらず。左打席で初めてクリーンヒットを打ったのは、中学1年から2年になるタイミングの練習試合。本格的に左へ転向してから1年以上かかりました。うれしくて今でも忘れられません。投手をしていた頃はシャドーピッチングをしてから素振りするのが日課だったので、打撃に使う時間は自主練習の半分でした。野手に専念したことで打撃に100%集中できるようになり、上達、成長の速度が上がりました。
左打者になってスピードが生きるようになった点も大きかったと思います。ドラフトで指名を受ける時に中日のスカウトの方からは「特に評価したのは打撃とスピード」と言ってもらえたので、右打者よりも一塁ベースに近い左打者に変えてよかったと感じました。