マスコミ欺き続けた“両投げ”の代償 異様な注目が招いた酷使…開幕直後に迎えた限界
開幕1軍も…左投げだけで臨んだ初登板は1失点で即2軍落ち
その頃は左で150キロくらいの球を投げていたという。両投げではなく左腕としての期待が高まり、ルーキーイヤーで開幕1軍を勝ち取った。しかし、それとは逆に日にちが経過すればするほど、体が、肩が、球速が……。「キャンプからずっと150%くらいの力でやっていましたからね。開幕した時にはもうクタクタという感じでした」。異様なほどの注目度の中でペース配分もわからず、常に目一杯のフル回転したツケが一気に回ってきたわけだ。
1988年シーズン、開幕4試合目の4月14日のロッテ戦(大阪球場)で出番がきた。4-8で負けている9回表に5番手で登板した。結果は1イニングを投げて打者4人に1安打1四球1失点。オール左で勝負したが「内容は全然駄目。スピードが出なかった。130キロいくか、いかないかくらいでしたから……」。すぐに2軍落ちとなったが、その時は思ってもいなかった。この登板がプロ野球人生、最初で最後の1軍マウンドになるなんて……。
その後、左投手として2軍調整が続いた。もはや騒ぎも落ち着いていたが、そんな中、華やかな舞台で両手投げを披露するチャンスが訪れた。7月22日に東京ドームで行われたジュニアオールスターゲームだ。ウエスタン・リーグの一員としてマウンドに上がった近田氏は投球練習で右でも投げた。これまで右はアンダースローだったが、その時はオーバースローで投げた。試合本番でも両方で投げるつもりだった。ところが、思わぬ誤算が生じたという。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)