痛み止め多用で壊れた体「もう無理」 右肘酷使で登板も…失った首脳陣の信頼
肘痛による球速減で失った信頼度「ここ一番で使われない」
そんな状態だったのに球宴では3試合のうち、第1戦(7月22日、広島)と第3戦(7月25日、後楽園)の2試合に登板した。第1戦は3番手で1回2/3を無失点(打者7人、2安打)、第3戦は4番手で1回無失点(打者3人、無安打2三振)と無難に切り抜けたように見えるが、結果的にはやはり右肘に負担をかけることになったのだろう。「肘が駄目で、それから3年間苦しんだ」という。
7年目(1979年)は24試合、1勝0敗9セーブ。8年目(1980年)は35試合、4勝3敗12セーブ。9年目(1981年)は48試合、6勝8敗8セーブ。右肘の状態が万全ではない中、それでも、それなりの結果を残したが「それは痛み止めですよ」と話す。
「飲み薬に注射。薬を飲むと痛くないんだわ。その場しのぎでも使った。でも胃を壊しちゃって、それで座薬を入れるようになった。それも1本では効かなくなって、2本入れたり……。病院にちゃんと出してもらった座薬だけど、そんな使い方で体にいいわけないよね。それで投げた。かわいそうだったね、肘が……」
そのうち、肘は悪いなりに「かたまってきた」という。だが、武器だった150キロを超える快速球は、もう無理だった。「140から145キロ。痛くなかったら、それくらいは投げられたけどね。でも俺の場合、スピードが下がるイコール比例するのは信用度だね。ここ一番で使われない。信用度が下がっているのが自分でもわかった。受け止めるしかなかったけど……」。先発でも抑えでも生き生きとして投げていたのが嘘のような状況だった。もどかしい日々が続いた。
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)