痛み止め多用で壊れた体「もう無理」 右肘酷使で登板も…失った首脳陣の信頼

中日時代の鈴木孝政氏【写真:共同通信社】
中日時代の鈴木孝政氏【写真:共同通信社】

鈴木孝政氏は5年目に最多勝争いも、翌年に右肘を痛めた

 令和の今では考えられないペースで投げまくっていた。中日OB会長で野球評論家の鈴木孝政氏はプロ5年目の1977年、先発、リリーフ兼任で18勝9敗9セーブの成績を残した。最優秀救援投手のタイトルにも輝いたが「これはね、抑えで失敗が多かった年」と厳しい表情で話す。「抑えで14勝しちゃった。抑えで打たれて、点を取られて、勝つというね。ちょっと下火がかってきたなって思い出がある」。若さに任せて、フル回転してきたツケが徐々に出始めていた。

 1977年シーズン終盤、鈴木氏は星野仙一氏と最多勝を激しく争った。「最多勝を狙えってことで先発に回ったんだけど、俺が勝つと仙さんも勝つ。仙さんが勝つと俺も勝つ。ちょっとの間、そんな感じだった。ロッカーで仙さんに『しつこいな』ってよく言われたもんね」。だが、終わってみれば、最多勝のタイトルは20勝をマークした広島・高橋里志投手が獲得した。「2人の争いは何だったんだって感じだったね」。星野氏も鈴木氏と同じ18勝だった。

 試練がやってきたのは、その翌年、プロ6年目の1978年シーズンだ。球宴前までに10勝3敗8セーブだったが、後半戦は7月30日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)でセーブを記録しただけ。肘を痛めた。8月9日の巨人戦(ナゴヤ球場)に6番手で登板した後、戦線離脱となった。「最後、王さんを三振だったもんね。全部フォークボール。投げられなかったもん。王さんのコメントが『いつか速いボールが来るかと思っていた』。それも覚えている」。

 右肘の状態は前半終了近くから良くはなかったが、オールスターゲームに監督推薦で出場した。「肘のことを心配した(中日1軍投手コーチの)稲尾(和久)さんに『孝政、辞退しないか』って言われたけど『出ます』と言った。俺の代わりに『星野を出す』っていうから。好きとか嫌いとかいう話じゃないよ。俺の代わりなんて、仙さんのプライドを考えたら、それはできないと思ったんで断った。代わりが仙さんじゃなかったら、言うことを聞いたかもしれない」。

肘痛による球速減で失った信頼度「ここ一番で使われない」

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