“バッピ”から甲子園→日本代表へ 無名選手が大成功…センス見抜いたコーチの慧眼
横浜・平戸イーグルスの中村大伸監督は「Y校」に一般入試で入学
野球を純粋に楽しみ、長く続けたい気持ちが輝かしいキャリアにつながった。横浜市の少年野球チーム「平戸イーグルス」を率いる中村大伸監督は現役時代、甲子園で春夏連続準優勝を果たし、社会人の時には五輪に出場した。些細なきっかけからチャンスをつかみ、あきらめない姿勢が実を結んだ経験を、子どもたちの指導に還元している。
その経歴は華やかだ。中村監督は「Y校」の愛称で親しまれる横浜商3年の時に、春夏連続で甲子園準優勝。日体大では大学日本代表に選ばれ、NTT東京時代はアトランタ五輪で主将として日本の銀メダル獲得に貢献した。だが、意外にも高校に入るまでは全くの無名選手だったという。
「中学の頃は、つなぎ役に徹する目立たない外野手でした。高校から声がかかる選手ではありませんでしたし、勉強と部活を両立するのは難しいから、高校で野球を続けるのはやめた方がいいと周囲から言われていました」
中村監督が野球を始めたのは小学5年生の時だった。野球に興味を持っていたものの、小学校入学当初に入ったサッカークラブを続けていた。中学では軟式野球部に入り、横浜商には一般入試で入学。自宅から近かった横浜商は当時、甲子園でベスト4に入るなど全国的にも有名な強豪校。ユニホームの胸元に入った「Y」の文字は中村監督の憧れだった。
「野球が好きでY校でプレーすることが目標だったので、周りの反対を押し切って受験しました。Y校のユニホームを着られるうれしさだけで、レギュラーになれるとは思っていませんでした。全く欲はなかったですね」
左投げが少なく打撃投手に指名…きれいな投球フォームで得たチャンス
チームメートは中学時代に実績を残した選手も多かった。中村監督は憧れのチームで大好きな野球を続けられる喜びで毎日を過ごしていた。転機が訪れたのは1年の秋だった。チームに左投げの選手が少なかったことから、打撃投手に指名された。その投球フォームを見た当時のコーチ、小倉清一郎さんが中村監督の潜在能力に気付いた。
「『投球フォームがきれいだから野球センスがあるのではないか』と言ってもらい、主力と一緒に練習する機会をいただきました。打撃投手でアピールしようという気持ちはなく、打者が打ちやすい球を投げることだけを心掛けていました。ストライクを取ることで精一杯でした。何がきっかけになるのかわからないですよね」
2年生になると、外野手として試合に出るチャンスを得た。甲子園のメンバーには入れなかったが、2年生の時に練習要員としてチームに帯同して聖地の雰囲気を味わった。そして、3年生でレギュラーを獲得し、春夏連続で甲子園の決勝まで進んだ。中村監督は自身を「エリートとは程遠い選手」と評する。それでも、33歳まで社会人で野球を続け、数々の栄誉を手にした理由を、こう語る。
「野球を続けている限りは必ずチャンスが来ます。野球が好きという思いは誰にも負けない自負がありましたし、チャンスをつかめるかどうかは野球に対する情熱だと思っています」
高校でも大学でも、周りには能力の高い選手がたくさんいたという。ただ、練習よりも遊びを優先したり、怪我やスランプでモチベーションを失ったりして野球から離れていく選手を見てきた。もちろん、楽しいことばかりではないが、中村監督は野球への向上心や情熱を持ち続けた。
中村監督はNTT東日本でのコーチを経て、22年前から平戸イーグルスを指揮している。昨年は激戦の神奈川を制し、初めて全国大会出場を果たした。野球の本を読んだり、他の指導者と交流したりして得た情報を指導に生かすケースもあるが、指導のベースには自身の経験がある。
「私は野球選手として能力が長けていたわけではありませんが、長く続けていれば特別な景色を見るチャンスがあります」。歩んできた野球人生には、子どもたちの心に響く説得力がある。
(間淳 / Jun Aida)
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