「女の子ばかり」不登校に追い込まれた高校生活 両親が呼ばれ発覚…孤独だった剛腕投手

元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】
元阪急・山口高志氏【写真:山口真司】

伝説の剛腕・山口高志氏が振り返る野球人生…少年時代から阪神ファンだった

 うなる剛速球で一世を風靡したのが元阪急(現オリックス)投手の山口高志氏だ。身長169センチの小柄な体を感じさせない全身フル活用の、“上から叩く”フォームによって投じられたスピードボールは強烈だった。日本球界最速投手とも言われている伝説の右腕が歩んできた道のり。指導者としても阪神などで活躍した藤川球児投手を覚醒させたことで知られるが、実は少年時代からタイガースファンでもあったという。

 現在、母校・関西大学硬式野球部のアドバイザリースタッフを務める山口氏は現役時代の自身の球速について「球が速いなって意識は自分にはない。だいたい自分のボールはわからないですから。人の評価ですから」と話す。「速い、速いと皆さんが思ってくれるのは、野村(克也)さんが『俺が対戦した中で速かったのは山口高志や』って話してくれたからだと思う。実際に速かった人はもっといると思います」とも付け加えた。

 そんな山口氏の野球との“出会い”は自然の流れだった。1950年5月15日、神戸市長田区出身。「長田小学校1年とか2年くらいじゃないですかね。4つ上の兄貴について回って、山の原っぱや近くの神社の境内で三角ベースみたいなのをね。あの頃のスポーツといったら、野球しかなかった感じでしたね。野球しか遊び方を知らなかったような気がする。友達もみんなやっていました。小学校の先生には『野球ばかりしないで勉強しなさい』ってよく怒られましたよ」。

 小学5年生の時に学校の軟式野球チームに入った。「学校の部活みたいなチーム。ポジションもみんなが順繰りにやっていた。今日は、俺はここ、お前はあっち、みたいなね。打つとか守るとか野球が面白かった時代ですね。友達とワイワイ言いながら。校舎に当たったらツーベース。そんな野球をやっていました。ちょっと大きいのを打ったらすぐ当たるんですよ」。

 プロ野球はテレビの中の世界だった。「小学校の時はまだ我が家にテレビはなかったので、たまに隣のおじさんがプロ野球を見るのに喫茶店に連れていってくれたイメージがあります。自分がプロ野球選手になるなんて夢にも思っていませんでしたね」。そんななか、好きな球団は阪神だったという。「まぁ、周りが阪神ファンだったですからね。俺はソロムコ選手が大好きだったんです。かっこよかったんでね」。

 マイク・ソロムコは右投げ右打ちの外野手で、阪神には1960年から1963年まで在籍(1960年は大阪タイガース)。4シーズンで計74本塁打をマークするなど中距離砲として活躍し、1962年の阪神優勝にも貢献した。その頃の山口氏は小学5年から中学1年までの時期だ。ソロムコは1964年に東京オリオンズ(現ロッテ)にトレード移籍し、1965年に現役を引退したが、ちなみに山口氏はソロムコ不在となって以降も高校、大学、社会人とずっと阪神ファンだったそうだ。

中学で神戸市の大会に優勝…市神港に進学も1年の5月に約2週間の不登校

 山口氏は高取台中でも、もちろん軟式野球部入りを選択した。ただし環境は小学校時代とはかなり変わったという。「楽しい野球がちょっとずつ楽しくなくなってきた頃ですよ。先輩は怖いし、よく立たされて説教されましたからね」。それでもやめることは一切考えず、一生懸命食らいついた。「小学校からの仲間が野球部にはいましたからね」。友達の存在が大きな支えになったわけだ。

 中学3年の時はエース格になり、神戸市の大会で準優勝。「ずっとチームのなかでは一番小さかった」という山口氏は「地元の新聞に“小さな好投手が現われる”って小さな記事ですけど、載ったのは覚えています」。高校は神戸市立神港への進学を決めた。関係者から誘われたことも大きかったという。自宅から徒歩で通える範囲に私立の野球強豪校・育英高校があったが「あそこは行こうとは、考えなかった」と苦笑した。

「中学の時、ミスをすると高取台中から500メートルくらいしか離れていない育英高校の横まで走ってこいと言われて走っていったら、よく目撃したんですよ」。視界に入ってきたのは強豪校ならではの当時の激しく、厳しい練習風景だった。「すごく怖い練習だと思ったんでね」。それで進路候補から外したそうだ。しかし、山口氏は市神港で順風満帆にスタートを切ったわけでない。5月頃には約2週間近く「不登校になったんです」と明かす。

「中学の時にバッテリーを組んでいたヤツと(市神港を)一緒に受けたんですけど、そいつは試験が駄目だったので、俺は1人で通うことになった。初めてグラウンドに行った時に『石でも拾っとけ』と言われてモヤモヤしていたんですけど、クラスは商業科で女の子ばかりだし、行き帰りも1人だし、面白くなくて学校をサボるようになったんです」。中学の時には小学校からの仲間がいたが、高校では彼らが不在。入学当初だけにそれも影響した。

「朝、家は出るんですけど、学校に足が向かなかった。須磨海岸や高取山に行って時間をつぶしてから家に帰る毎日でした」。当時、山口氏は肋間神経痛にも悩まされていたが「それはそんなに関係ない。ただ面白くなかっただけ。いわゆる五月病みたいなヤツですよね」と振り返った。「担任の先生に両親が呼ばれて、学校に行っていないことがバレた。先生に怒られたり、説得されて、また行くようになったんです」。

 野球部に関しても「担任が同級生とか上級生に声をかけてくれて、もう1回やらせてくれというような話をしてくれたと思うんですよね」と山口氏は話す。そんな時期を乗り越えてから、レジェンド右腕の野球人生は本格化していく。阪神・ソロムコ外野手が好きだった野球少年は、時を経て日本を代表する投手にまで成長していくことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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