耳打ちでまさかの追加発注「ゴジラの人形さ、あと何体か、なんとかならないかな」 知られざる50体のソフビ物語|私だけが知っている松井秀喜#7

ニューヨークのタイムズスクエアでバットを構える松井秀喜(2003年)【写真:アフロ】ニューヨークのタイムズスクエアでバットを構える松井秀喜(2003年)【写真:アフロ】

当時の上司からの提案「挨拶代わりに渡させたらウケるんじゃないか」

 Full-Count+の連載「私だけが知っている松井秀喜」では、当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を紐解いていく。今回の筆者は、巨人時代後半の5年間(1998~2002年)とヤンキース1、2年目(2003、2004年)に夕刊紙記者としてゴジラを追いかけた宮脇広久。挨拶代わりの“人形”を巡る逸話と、草野球で垣間見えた人間性を振り返る。(敬称略)

宮脇広久
著者:宮脇 広久
みやわき・ひろひさ
松井秀喜取材担当:1998〜2004年
プロフィールを見る
埼玉県出身。県立川越高、立教大を経て1991年に産経新聞社入社。産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジで主にプロ野球(特に巨人)を担当。2001年にはマリナーズ・イチロー、2003年と2004年はヤンキース・松井秀喜に同行し現地取材。2020年からフリーとなり、Full-Countに寄稿。高校時代に応援団、大学時代に劇団に所属していたため、腹式呼吸ができて声が通る。

 松井のニックネームは、言わずと知れた「ゴジラ」である。1954年を皮切りに何度も製作された怪獣映画シリーズの主人公。松井は驚異的なパワーで世間を震撼させた星稜高時代に“命名”され、2002年公開の映画「ゴジラ×メカゴジラ」には本人役で出演している。

 実は、昔から米国にもゴジラ・マニアは数多い。ヤンキース1年目、メジャーリーグきってのスター軍団に新加入するにあたって、キャッチーな「ゴジラ」(ネイティブ風に発音すると「ガッ・ズィーラ」)の愛称は、格好の名刺代わりとして役立った。

 2003年1月、ヤンキースと契約を交わした松井は初めて参加するメジャーの春季キャンプを前に、日本国内でジャイアンツ球場の室内練習場を借り、打撃練習を行っていた。格段にパワーアップするメジャーの投手に対応するためなのか、巨人では右手だけだった革手袋を両手にはめ、右手の小指をバットのグリップエンドにかけていたスタイルもやめて、10本の指でしっかり握っていたのが印象的だった。

 この頃、「松井にゴジラのソフビ(ソフトビニール人形)を持たせて、ヤンキースの新しいチームメートに挨拶代わりに渡させたら、ウケるんじゃないか?」と提案したのは、大変な特撮マニアの一面を持つ、私の上司だった。上司は、日本有数の特撮グッズ収集家で自らソフビメーカー「M1号」を立ち上げていた西村祐次に話をつけ、同社製作のゴジラのソフビ約20体を集めてきた。

 私はといえば、なんだか変なゴマをするみたいで、実は気が進まなかったのだが、ジャイアンツ球場の駐車場で段ボール箱に入ったソフビを松井に見せると、「おっ、いいね」と思いのほか喜んでくれた。

 そして渡米後、米フロリダ州タンパでの春季キャンプ後半。松井が私にこう耳打ちした。

「宮脇ちゃん、ゴジラの人形さ、あと何体か、なんとかならないかな。ロジャーが子どもの人数分、欲しいと言っててさ……」

 ロジャーとは、最終的にメジャー通算354勝を挙げ、サイ・ヤング賞に7回輝くことになるロジャー・クレメンスのことで、当時のヤンキースの大エースだ。クレメンスには4人の息子がいて、いずれも頭文字が三振を意味する「K」であることはよく知られている。

 その後、タンパとニューヨークに1度ずつ小包が届き、結局上司、私、松井を経由してヤンキースのナインに渡ったM1号製のゴジラのソフビは、合計約50体に及んだと記憶している。西村は代金を受け取らず、お返しに、松井がサインを書き込んだソフビを数体、日本に送り返した。少しでもヤンキースのナインの心を和ませ、日本と松井自身への興味を喚起してくれとしたら、うれしい。

報道陣との草野球で見せた人間味…外角球を逆らわず左中間へ

 私が取材したヤンキース1、2年目。松井はレギュラーシーズン、ポストシーズンを通して全試合で試合後、日本のメディアの囲み取材に応じた。たとえ5打数無安打であってもだ。毎日淡々と試合を振り返り、感情をあらわにすることはほとんどなかった。今振り返ると、常に普段通りであったことに、むしろ凄みを感じる。

 松井はヤンキース1年目の開幕当初、当時日本ではまだ投げる投手が少なかったツーシームへの対応に苦労した。バットは外角へ逃げながら落ちる球の上っ面を叩き、二ゴロを連発。ニューヨークの新聞では「ゴロキング」と揶揄された。そんな平常心を保つのも難しい状況で、松井は動揺をうかがわせず、連日淡々と取材に応じ、結局打率.287、16本塁打106打点という合格点の成績を残した。チームも2年ぶりのワールドシリーズ進出を果たした(マーリンズに敗れ“世界一”は逃した)。

ヤンキース1年目の松井秀喜【写真:アフロ】ヤンキース1年目の松井秀喜【写真:アフロ】

 そんな松井の人間味を一番感じたのは、報道陣との草野球だった。シーズン中、ヤンキース広報部入りして松井の専属広報を務めていた広岡勲の主導で、100人にも及ぶ在ニューヨーク・松井担当メディアが4チームに分かれ、草野球リーグ戦を展開。優勝チームはオフに、松井を迎えた“その他選抜チーム”と対戦できることになっていた。

 ちなみに、松井が積極的に報道陣との草野球に参加してくれた理由は、「ピッチャーをやりたかったから」らしい。同時期にメジャーで活躍していたイチローもそうだが、野手として大成功を収めてもなお、野球をやっている以上、マウンドに立つ楽しさ、誇らしさを忘れられない選手が多いようだ。松井は「星稜でもピッチャーをやりたかったけれど、入部3日目に“クビ”になった」と言っていた。

 そしてヤンキース1年目の報道陣との草野球。松井は打撃ではハンデとして右打席に立っていたが、接戦のまま試合終盤を迎えると、最後の打席では左打席に立った。そして、外角球を逆らわずに左中間へ運ぶという“基本に忠実過ぎる”打撃で、ランニングホームランにしたのだった。相手ベンチからは「素人相手に大人げない」と散々ヤジが飛んだが、本人はハンディカメラに収められた映像を見返し、「いいねぇ……」と悦に入っていた。

 野球が心底好きで、ハンデを負うことはあっても、極力手抜きはしたくない。そんな松井の思いが垣間見えた気がした。

 そして、少し自慢させていただくと、私にとって人生一番の誇りは「松井から二塁打を打ったこと」だ。

 ヤンキース2年目のオフ。“松井投手”の外角高めのストレートを夢中でミートすると、打球はライトの頭上を超えた。ただし、次の打席では、松井が私に初めて投げてきた変化球(スライダー)に手が出ず、見送り三振に倒れた。

 その試合の終盤、セカンドを守っていた私は二塁に進塁してきた松井と目が合った。一瞬、私は「二塁打をほめてくれるかな」と期待したが、松井は「俺のスライダーに、ピクリとも動けなかったね」とニヤリ。日米通算507本塁打を放った希代のホームランバッターはもともと、投手としては草野球と言えども、相手打者が名門高校野球部の出身だと聞けば初球からフォークを投げてくるような大人げない……いや、心底野球が好きな男なのである。

 時は流れた。私は取材に出向けなかったのだが、松井は現役引退後13年目の昨年9月、「イチロー選抜KOBE CHIBEN」の一員として高校野球女子選抜との試合に出場し、女子高生からバンテリンドームナゴヤの右翼席中段へ特大弾を放っていた。打たれた相手投手が、どこかうれしそうに見えたのが印象的で、その気持ちはよくわかる気がした。

(宮脇広久 / Hirohisa Miyawaki)

私だけが知っている松井秀喜

安易な会話に「見え見えなんだよ。出直してこい!」 温厚な人格者の“2度の叱責”…共通する妥協なき姿勢|私だけが知っている松井秀喜#6「やっぱり今日は行けなくなった」謝罪の連絡に感じた異変 幻の“49年会”…裏で起きていた切実な現実|私だけが知っている松井秀喜#5取材できなかった“起死回生HR” 嬉しさと情けなさが交錯した奇妙な夜…翌日に救われた「いつもの姿」|私だけが知っている松井秀喜#4米国のトイレ事情を真剣に助言「あんなこと言ってきたやつは初めてだよ」 バカ話も、野球哲学も…共通する“懐の深さ”|私だけが知っている松井秀喜#3まさか覚えていた下っ端記者の名前「おお、よく来たね」 初対面から3か月…“常識”覆ったロッカーでの衝撃|私だけが知っている松井秀喜#2「謝るくらいなら、書くな」…忘れられない真顔と目力 大切な“時間をかけて深くなるもの”…思い出す歯ブラシと時計|私だけが知っている松井秀喜#1

RECOMMEND