「やっぱり今日は行けなくなった」謝罪の連絡に感じた異変 幻の“49年会”…裏で起きていた切実な現実|私だけが知っている松井秀喜#5
メジャーでは最終年の2012年にレイズに在籍していた松井秀喜【写真:アフロ】松井秀喜と同じ昭和49年生まれ、同世代として抱いた誇りと親近感
Full-Count+の新連載「私だけが知っている松井秀喜」では、当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を紐解いていく。今回の筆者は佐藤直子。松井と同い年で、同じ時代を生きてきた誇らしさと親近感。あの日、幻に終わった「49年会」の約束と、その裏で起きていた切実な現実を振り返る。(敬称略)
私は松井秀喜と同じ、昭和49年生まれ。日本人メジャー経験者では井口資仁、黒田博樹、小林雅英も同学年で、シカゴに住み、メジャー取材をしていた当時、4人のことを密かに誇らしく思っていた。“同い年”というだけで、勝手に近しさを覚えていたからだ。
石川の星稜高にすごいバッターがいるらしい。そんな話を聞いたのは高校1年の時。携帯電話もインターネットもまだ一般的ではない時代に、群馬に住む女子高生までその存在を知っていたほど、松井の存在は大きかった。
3年夏の甲子園、かの有名な5連続敬遠の日は今でも覚えている。朝からNHKで甲子園を見ながら勉強をし、午後1時過ぎの電車に乗って部活に行くのが夏休みのルーティン。この日は第3試合だった星稜vs.明徳義塾の観戦を途中で切り上げ、後ろ髪を引かれる思いで駅へ向かった。高校通算60号が出るかもしれないのに……。この時すでに2打席敬遠されていた。
5打席連続敬遠を知ったのは、部活が終わった後のこと。「えーっ!」とひと声叫んだ後、帰りの電車で部活仲間とああでもないこうでもないと持論を戦わせた。立ち飲み屋のサラリーマンではない。女子高生が、だ。それほど大事件だったのだ。
米メディアからも人気があった松井…評価されていたユーモアセンス
その松井に初めて挨拶をしたのは、確か2007年か2008年、ヤンキースがシカゴ遠征に来た時だった。当時スポーツ紙の通信員をしていた私は、休暇を取った松井番の記者に代わり、ホワイトソックスとの3連戦を取材。初日の練習前に名刺を持って自己紹介に行った。
「初めまして。同い年なんです」
言うことは色々考えていたはずなのに、なぜか口走ってしまった「同い年」という言葉。ロッカー前で椅子に腰掛けていた松井は、こちらを向くと「お、そうなんだ。よろしくね」と気さくに笑った。
あの5打席連続敬遠の松井が、東京ドームやヤンキースタジアムを湧かせる同世代のヒーローが、目の前にいる。でも、雲の上の存在感は一切なく、漂うのは友達の友達くらいの気楽さ。今考えると、それは松井の気遣いだったのかもしれないが、なんだか不思議な空間だった。
定期的に取材するようになったのは2011年、アスレチックスに移籍したシーズンからだ。この年は4月に日米通算2500安打、7月に同500本塁打を達成するなど重要な節目を迎えたが、思うような結果を残せず。シーズン中は常に悩みの中にいる様子だった。松井のマイペースぶりは有名な話だが、試合後に恒例の囲み取材が始まるまでが長かった。何をしているのかと思えば、ロッカー前で本を読んでいることも。報道陣に応対する前に気持ちの整理をつけていたのだろう。
囲み取材に応じた際のアスレチックス在籍時の松井秀喜【写真:アフロ】「49年会しましょう」→「君たちと違って忙しいんだよ、俺は(笑)」
(佐藤直子 / Naoko Sato)
私だけが知っている松井秀喜
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