日本ハムから糸井を獲得した大型トレードの真相
育成から支配下登録、助っ人の獲得など、シーズン中の補強期限は7月末までと決まっている。そんななか、プロ野球の歴史では、ファンが驚くトレードが何度も行われてきた。オリックスで球界を騒がせた大型トレードといえば、2012年オフの大引啓次、木佐貫洋、赤田将吾と日本ハム・糸井嘉男、八木智哉の3対2トレードが挙げられる。今回はオリックスで球団本部長などを務めた瀬戸山隆三氏が、大型トレードの真相を振り返る。
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2012年11月に執行役員球団本部長補佐に就任すると、いきなり大仕事が降ってきた。年が明けた2013年春季キャンプ目前の1月。瀬戸山氏の携帯が鳴った。電話の主は当時、日本ハムのGMを務めていた吉村浩氏だった。ロッテ時代を含め、そこまで頻繁に連絡を取り合う仲ではなかったが、再び球界に戻ってきた“名物フロントマン”は着信があった時点でピンと来たという。
「まだ、私は本部長補佐という立場でしたが、吉村さんから『糸井を出したい』というニュアンスだったかなぁ。ポスティングや契約の面で揉めていることは知っていました。あのトレードは完全に日本ハム主導。ただ、あれだけの選手。当時のオリックスには絶対に必要でした。糸井の代わりになる選手はいない。すぐに村山(良雄)本部長に獲得を進言したのを覚えています」
当時、チームは4年連続Bクラスの最下位に沈み、新たに森脇浩司監督を迎えるシーズン。2012年に3年ぶりのリーグ優勝を果たした日本ハムで4年連続3割(.304)、最高出塁率(.404)、4年連続ゴールデン・グラブ賞に輝いていた主力を手にするチャンスを逃すわけがなかった。
日本ハムの主力だった糸井を獲得するために…背負った“リスク”
ただ、糸井を獲得するためには、それなりのリスクを背負わなければいけない。投手では木佐貫、外野手では赤田を放出したが、日本ハムから真っ先に名前が上がったのは大引だった。大学時代は「法政史上最高の主将」と称賛され、プロ入り後も堅実な守備と勝負強い打撃、そして強いリーダーシップを発揮していた男だ。
「最初の電話の時に大引という名前もすぐに出たんです。大引じゃないとダメだと。『それだったらこれで、すぐどうするか決めましょう』ということでね。その電話があって1週間以内ぐらいにはもう決まっていたと思う。まさに電光石火。私は前年に行われた懇親会で大引と『これから頼むぞ』といった内容の深い話をしていました。実際に本人にトレードが決まったという話をしたときは複雑でした。最初は自分がトレードされるということを分かっていない様子でしたから」
大引は2012年11月に選手会長に就任したばかり。しかも、通告されたのは沖縄・宮古島春季キャンプ直前の2013年1月23日。野球道具など荷物の搬送をするために球団施設を訪れていた時に、球団幹部から呼び出しを受けた。
選手会長としてやる気に満ち溢れていた矢先に、寝耳に水のトレード通告。いつもは報道陣に丁寧な対応をする男が、その時ばかりは顔を真っ赤にして矢継ぎ早の質問にだんまりを決め込み、球場(ほっと神戸)を去っていった姿を、筆者も鮮明に覚えている。
糸井はオリックス移籍後にキャリアハイの成績を残す
球界に衝撃を与えた大型トレードだったが、オリックスの遊撃には2011年ドラフト1位・安達了一が控えており、日本ハムには二刀流のスーパールーキー・大谷翔平が加入。両球団ともレギュラーを放出する形となったが、後にチームの主力となる選手がいたことも大きかった。
オリックスに移籍した糸井は2013年に打率3割をマーク。翌2014年にはチームをリーグ2位に導き、キャリアハイの打率.331で首位打者を獲得した。2016年には自己最多の53盗塁をマーク。35歳2か月での盗塁王は当時の史上最年長記録だった。
「あのトレードはオリックスにとって、僕は良かったと思っている。移籍前は“扱いづらい選手”のイメージがあったかもしれないが、そうでもなかった。去年、長年オリックスを支えた横田昭作さんが定年で退職し、食事をすることになった。その時に糸井に電話したんだよ。『この時間に電話するから横田さんへ慰労の言葉を頼む』って。そうすると『瀬戸山さん、久しぶりですね。もちろん、喜んで!』と快く電話してくれた。トレードはマイナスなイメージがあるかもしれないが、後に振り返ってみると選手やチームにとってプラスな部分も必ずある」
球界を震撼させた電光石火のトレード劇――。瀬戸山氏の言葉を証明するかのように、選手たちがグラウンドに刻んだ足跡は、今も両球団のファンの記憶に深く刻まれている。
(橋本健吾 / Kengo Hashimoto)