寄せ書きは感謝と愛にあふれていた 故・小枝守氏が伝えたこと、残したもの
昨年1月に逝去、日大三、拓大紅陵、U-18高校日本代表監督を務め、多くのプロを送り出した名将
小枝守さんがこの世を去って、1月21日で1年が経った。約5年間に渡って東京・日大三の監督を務め、約33年も千葉・拓大紅陵で指揮。1992年夏の甲子園では福岡・西日本短大付に0-1で敗れ、準優勝。甲子園には春夏通じて10回出場。2016年からの2年間は、U-18侍ジャパン・高校日本代表の監督を務めた。昨年、肝細胞がんのため、都内の病院で亡くなった。私はこの1年、ずっと持ち歩いていた栞(しおり)がある。小枝監督のご家族からいただいたものだが、そこにはひとつの詩が書かれている。
一つの導きは教えであり夢であり、彼らの脚元を照らす光となる――。
小枝監督は、幼少の時から短歌、古文、漢文、倫理が好きで、言葉の力によって自分自身を作ってきた。指導者の立場になってからは、卒業式に野球部員それぞれにふさわしい“贈る言葉”を直筆で手渡していた。これから社会に出ていく上で、必ずその言葉の意味がわかる時が来る。その言葉を今も大事にしてる拓大紅陵のOBも多くいる。
栞に記された言葉は、教え子への思い、指導論そのものだ。小枝監督は高校野球を勝利至上主義ではなく「人間形成の場」と位置付けていた。たった2年半の短い期間で社会に出ても恥ずかしくない人間を作ることが生きがいでもあった。常に生徒のことを考え、自分のことは二の次だった。「社会のレギュラーになりなさい」「苦労は背負わず、前に置いて乗り越えなさい」好きな言葉がたくさんあった。自分だけでなく、全国の中高生や悩める若者のために、もっと監督の言葉を取材者として届けたかった。
2018年秋。体調を崩した小枝監督が検査入院をすることになった。「しばらく会えなくなると思ったから」と入院を翌日に控えた日、連絡をもらい、都内の病院で面会した。少し弱気になっていた監督に、未使用の硬式ボールを手渡した。「病室に置いてください。退院するときにはこれにサインを入れて、そのボールをください。約束ですよ」。自分に言えることはこれが精いっぱいだった。監督の前では必死に涙をこらえた。
一時退院を許可された時は可愛い孫たちと一緒に時間を過ごした。これまで野球一筋で、“おじいちゃん”らしいことをしてこれなかったから、と目尻は下がりっぱなしだったという。驚いたのは、体調が万全でない中も「自分の指導を待っている人がいる」と、毎年行っている指導者講習会の講師を務めていたこと。生徒だけでなく、指導者の“後輩”たちを思い、自分が歩んできた道のりを全力で伝えていた。話を聞いた若い指導者たちの心には、その教えが今も生きている。