呉昌征、郭泰源、呂明賜、陽岱鋼… 日本で花開いた台湾人選手の系譜
日ハムが王柏融の交渉権獲得、戦前から交流してきた日台野球界
日本ハムが、CPBL(台湾プロ野球)最高の打者と言われる王柏融との交渉権を獲得した。日本野球にとって、台湾は大きな役割を果たしてきた。これを機に、日本プロ野球における台湾選手が果たした役割について振り返ろう。
1895年から1945年まで台湾は日本の統治領だったので、日本球界には戦前から多くの人材を輩出している。
1915年に今の夏の甲子園に当たる「全国中等学校優勝野球大会」がスタート。1921年には、当時日本の植民地だった朝鮮、満州からの代表が出場するようになり、1923年には台湾代表も甲子園に出場するようになった。
いわゆる「外地」の代表では、台湾が最も強かった。1931年夏の甲子園では、台湾代表の嘉義農林が決勝戦に進んだ。嘉義農林の監督は、愛媛県出身の近藤兵太郎。台湾大会から甲子園の決勝まで1人で投げ抜いたのが呉明捷。この快挙に台湾中が沸き返った。この年の嘉義農林のドラマを描いたのが、2014年に公開された台湾映画「KANO~海の向こうの甲子園~」だ。
呉明捷はその後、早稲田大学に進み一塁手に転向。東京六大学で通算7本塁打を打つ。これは慶應大の宮武三郎とともに東京六大学記録だったが、1957年に立教大の長嶋茂雄が8本塁打を放ち、これを抜いた。
嘉義農林はその後も甲子園で活躍。その中から日本プロ野球で活躍した呉昌征、呉新亨などの選手を輩出している。中でも呉昌征は、巨人、阪神で活躍。首位打者2回、盗塁王1回、投手としてもノーヒットノーランを記録し、1995年に野球殿堂入りした。