迫る津波…生死分けた“咄嗟の右折” 柴田高の元主将、甲子園初出場の弟に託す夢【#あれから私は】
大舞台で「思い切りプレーしている元気な姿を見せたい」
昨夏の宮城県独自大会では主将としてチームをまとめ、「みんなで一日でも長く、野球をやろう」と勝ち進んだ。「先輩方が2年連続でベスト4。かっこいいなと思って見ていましたし、周囲の盛り上がりも感じていました」。自分たちも――。しかし、仙台育英との準々決勝は3-4で惜敗。県8強で航汰さんは柴田のユニホームを脱いだ。
「野球は僕らを様々なことから救ってくれました。今、考えれば、震災後は野球ができる環境ではありませんでしたが、それでも始めることができ、続けることができた。僕は野球がなかったら、震災を乗り越えられたか分かりません」
石巻市では関連死も含め、3900人以上が震災の犠牲になった。全半壊した建物は3万3000棟以上にのぼる。プレーできたことはもちろん、小坂コーチをはじめとするたくさんの人から支援があったこと、西武を退団して“浪人中”だった工藤公康さん(ソフトバンク監督)が石巻を訪れた時に打撃投手を務めてくれたこと、2012年に地元の石巻工が21世紀枠で選抜大会に出場したこと……。野球があったから、前を向いて進んで来られたと感じている。
学校のキャッチフレーズは「夢実現」。昨秋、弟の隼翔ら後輩たちは宮城県3位で出場した東北大会で各県の優勝校をなぎ倒し、準優勝。1986年の開校以来、春夏通じて初めての甲子園出場をたぐり寄せ、高校球児の夢を実現させた。
隼翔は「避難している時、お兄ちゃんが右ではなく、左に行っていたら多分、津波に飲まれていたかもしれません」と打ち明ける。命を噛み締めながら立つ大舞台に向け、「お父さんとお兄ちゃんの分も夢を実現できた。石巻で生まれ育ったので、石巻、宮城県の方々に思いきりプレーしている元気な姿を見せたいと思います」と意気込む。
航汰さんは4月から仙台市内の専門学校に通い、野球に注いできたエネルギーを消防士になるための勉強に注ぐ。次は自分が夢を実現させる番だ。あの時、右に曲がって走った判断力を活かす時に向かって――。