震災43日後に再始動、翌年選抜へ 生徒の「野球、やりてぇ」に応えた石巻工監督の覚悟【#あれから私は】
2011年3月22日に除去作業を開始、1か月後に練習を再開させた
想像を絶する恐怖体験をした人々は、その後も壮絶な日々を送る。石巻工の部員の中にも自宅を流された者が何人もいた。見つからない家族を瓦礫の中から探し続ける部員、見つけた部員、遺体安置所を回って歩く部員もいた。家族、親類、友人、知人、誰もが身近な人の訃報に胸を締め付けられた。避難所の蛇田中でしばらく運営の中心的役割を担っていた松本理事長も親戚を亡くした。
石巻市の面積は555.4平方キロメートル。そのうち、浸水面積は73万平方キロメートルで、平野部の約30パーセントに及び、中心市街地は全域が浸水した。死者・行方不明者に関連死も含めると、犠牲者は3900人以上。建物の全半壊、一部損壊は5万6000棟以上にのぼる。石巻工グラウンドの最高水位は170センチ。あの瞬間まで誰かの生活を支えていたであろう冷蔵庫に洗濯機、タイヤに電柱……、泥にまみれた漂流物がたくさんあった。そんな状況で、松本理事長の背中を押した出来事があった。
「職場がなくなった、家もなくなったという保護者から『子どもたちが野球をやっているところを見るのが楽しみだから、先生、やってけろ』って言われて。子どもたちも『やりてぇ』ってなった。この状況で、なんでこの子たちは『やりてぇ』って思うんだろうって思ったよ。あきらめてないんだよな、『野球、やりてぇ』って」
震災から11日後の3月22日。漂流物や重たいヘドロの除去作業がはじまった。1つ1つ、コツコツと片付けていく日々。黙々と作業を続ける高校生の姿、車ではなく自転車や徒歩で目的地に向かう人々の姿を見ていた時、松本理事長の頭にフッと浮かんだのが、あのフレーズだった。「本当は『あきらめの悪い街・石巻』だったの」。それを「あきらめない街・石巻」とし、のちに人々の心を揺さぶるスローガンとなった。
「あの地区で最初に練習をはじめられたのが石巻工だった。(フレーズは)こういう状況で野球をやる覚悟かな」。重機を貸してくれた人、県内で津波被害のなかった地域からチームで手伝いに来てくれた高校生など、多くの力によってグラウンドは復旧。作業開始から1か月後の4月23日、練習を再開した。