「自宅は駄目だって言ってるだろ!」居場所わからず…犯した禁じ手 走り去る車を見つめ痛感した情けなさ|私だけが知っている松井秀喜#8

番記者が感じた松井秀喜の素顔【写真:アフロ】番記者が感じた松井秀喜の素顔【写真:アフロ】

2011年オフは無所属のまま越年…それでも変わらなかった松井秀喜

 当時の担当記者たちが「未発表の記憶」を回想するFull-Count+の連載「私だけが知っている松井秀喜」。#8の筆者は清水友博。2011年から2012年にかけて、キャリアの終章に寄り添い続けた「下っ端番記者」だからこそ見えた松井秀喜の素顔――。今回は「犯した禁じ手と、触れた優しさ」。(敬称略)

清水友博
著者:清水 友博
しみず・ともひろ
松井秀喜取材担当:2011〜2012年
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2005年に報知新聞社に入社。記者として東京本社でサッカー担当を務めたあと、2006年末に東北支局に転勤となり、Jリーグ、プロ野球、アマチュアスポーツなどを幅広く取材。2010年末に東京本社に戻り、MLB担当としてアスレチックス、レイズ、ヤンキースなどを取材。2015年2月にCreative2へ入社し、Full-Count編集長やメディア事業本部長などを務めた。2024年1月からCreative2の代表取締役CEO。

 2011年にアスレチックスでのシーズンを終えた松井は、2年連続でフリーエージェント(FA)となった。そして、次の所属先が決まらないまま日本へ帰国。現役生活で初めて、無所属で年を越すことになった。予想されていた状況だったとはいえ、その心中は穏やかではなかったはずだ。

 ただ、帰国の際に空港へ集まった報道陣を前にした松井は、移籍先の選び方に特別なこだわりはないこと、じっくりと状況を見極めていく考えであることを、落ち着いた口調で語った。

 筆者はこの場で一つ質問をした。全30球団が移籍先の候補になりうるか、というものだ。当時、ナ・リーグにはDH制がなかった。DHとして起用されることが多くなっていた松井にとって、ナ・リーグ球団でのプレーは出場機会が大きく制限されることを意味する。代打中心の起用法になるかもしれない。それでも選択肢から外さないのか――。そこを確認したかったが、答えは明確だった。全球団OKだと。米国10年目のシーズンが、さらに厳しい環境になることは明らかだった。

 年を越すため、大晦日に故郷の石川へ帰省した松井のもとにも、報道陣が詰めかけた。「家族とゆっくり過ごしたい」と淡々と話す姿は、どこか静かな覚悟をまとっているように見えた。

 空港での対応も、石川での対応も、毎年恒例の光景ではある。しかしその年は状況がかなり違っていた。次の所属先も決まらないまま年を越し、自身の去就が宙に浮いている。報道陣を避けたくなって当然の立場にいながら、松井はそうしなかった。どんな状況でも、やはり変わらなかった。

 問題は、故郷で過ごす時間を終えた後のことだった。松井が石川から東京へ戻ってきたということは、担当記者にとっては、自主トレの張り込みが再開されることを意味する。例年、松井はオフシーズンになると都内のグラウンドにふらりと姿を現し、黙々とトレーニングをこなしていた。このオフも例外ではないはずだった。真冬のグラウンドで、いつ来るかも分からない取材対象をひたすら待ち続ける張り込み生活が、また始まった。

 ところが、1月も後半に差し掛かった頃から、異変が起き始めた。

グラウンドに現れなくなった松井…居場所つかめず募る焦り

 松井が、グラウンドに現れなくなったのだ。1週間待ち続けても、姿がない。所属先が決まらなければ、2月中旬のキャンプインを迎えても当然どこにも合流できない。それでも「松井が無所属のまま渡米するのではないか」という情報が、じわじわと耳に入り始めていた。確かに、どこかのチームと契約に至った場合、時差のある日本で自主トレを続けていては、すぐにキャンプに合流できないかもしれない。

 焦った。グラウンドに来ない松井。しかし情報が掴めない。じりじりと迫ってくるタイムリミット。番記者として、何もできていない自分への焦燥感が積もっていった。そして、ある朝、筆者は松井の自宅へと向かった。

 報道陣が自宅を訪れることは、さすがの松井も許していない。越えてはいけない一線だった。本当の緊急事態、最後の最後の手段。よほどのことがなければ踏み込んではいけない“禁じ手”だった。

 正直に言うと、そこまでの切羽詰まった状況ではなかったかもしれない。しかし、自分の取材力が足りず、松井が来なくなった理由も掴めず、不安と焦りに負けて、気がついたら自宅の前に立っていた。そして、駐車場の出口で、本人が出てくるのを待ち続けた。数時間が経った頃、松井の車がゆっくりと出てきた。そのまま通り過ぎてしまうかもしれない――。そう思った瞬間、車が止まり、窓が開いた。

「自宅は駄目だって言ってるだろ!」

 怒気をはらんだ声が飛んできた。さすがの松井も、こちらを見つめる目つきが厳しい。
当然だ。ルールを破り、プライベートな空間に踏み込んできた若造記者に対して、怒らない理由はない。報道陣が待ち構えるグラウンドに来て自主トレを行うということは、松井自身が「そこでは取材を受ける」と受け入れているということ。そういう場があるにもかかわらず、その暗黙の了解を筆者は一方的に破った。

「すみません」と頭を下げた。謝りながら、内心では車がそのまま走り去ることを覚悟していた。ところが、松井の口から次に出てきた言葉に、私はまたも驚かされることになった。

「で、何?」

 二、三言、言葉を交わした後、筆者はストレートに聞いた。渡米が近いのか、と。いつ発つのか。どこへ行くのか。それが分かれば、番記者として次の手が打てる。しかし、そんなことを本人が教えてくれるはずがない。「それは自分で取材しなさい」と言わんばかりに、松井はスーッと窓を閉めた。そして、車は静かに走り去った。

 その後、松井は無所属のまま渡米した。チームが決まったときに備え、練習拠点をアメリカへ移したのだ。

 駐車場から走り去る車を、筆者はぼんやりと見つめていた。“禁じ手”を使って手に入れたものは、ほとんど何もなかった。感じていたのは、本人への申し訳なさと、自分の取材力のなさに対する情けなさだけだった。ただ、その場で取材に応じてくれたおかげで、ほんの少しの時間だけでも会話できたことが救いだった。

 おそらく松井は、あまりにも余裕がなさそうな若造記者の顔を見て、放っておけずに車の窓を開けたのだろう。当時は、大した覚悟もなく自宅に行ってしまったことに対する後悔の念しかなかったが、それが優しさだったのだと今は感じる。これも、数え切れないほどの記者と向き合い、取材対応をこなしてきた松井秀喜のプロフェッショナルな姿勢の一部だったのだと。

 そして、まさかここから本当の試練が訪れるとは、そのときの筆者には想像もできなかった。

(清水友博 / Tomohiro Shimizu)

私だけが知っている松井秀喜

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