顔面直撃、捻挫、盲腸…名手襲った“負の連鎖” 転機は母のススメ「それがヒットだった」

中日で活躍した正岡真二氏【写真:山口真司】
中日で活躍した正岡真二氏【写真:山口真司】

正岡真二氏は森下整鎮コーチに徹底的に鍛えられた

 猛練習に明け暮れた。元中日の名手、正岡真二氏は今治南からドラフト4位でプロ入りし、1968年のプロ1年目から徹底的に鍛えられた。「2軍では1時間くらいノックした後に試合だからね。コーチは鬼だったね。でも、おかげで一人前になれた」。この時期に得意の守備を磨いたからこそ、現役を17年間続けられたと思っている。そしてもうひとつ、苗字を変えたことが運を呼び込んだという。

 正岡氏の初出場は1968年9月20日の巨人戦(中日球場)だった。8回表にショートの守備に就いた。「震えたねぇ、ブルブルっと。手と足が自然と震えるんだよ。高校の時に甲子園に出た時もそうだったけど、こういう時はとにかく声を出す。大きな声を上げれば、気持ちがスーっと落ち着く。巨人戦も声を出して緊張をほぐしたのを覚えている」。この年は7試合に出場して5打数1安打だった。

 背番号は51。今でこそイチロー氏の背番号「51」が有名だが、正岡氏は当時から、この数字を気に入っていた。ドラゴンズの「D」の「51」は「デゴイチ」の愛称で知られた「D51形蒸気機関車」と共通項があったからだ。14年目の1981年に背番号6に変更したが「あれは井上弘昭さんが(日本ハムに)移籍して6が空いたのでお願いした。6も高校の時につけていたし、愛着があったのでね。でも6以外だったら”デゴイチ”を変えることはなかったよ」。

 そんな“デゴイチ”時代の正岡氏は2年目の1969年から2シーズン、1軍出場ゼロ。2軍で元南海内野手の森下整鎮コーチに徹底的に鍛えられた。現役時代に盗塁王1回(1955年に55盗塁)、セカンドでベストナインも2度受賞した森下氏だが、内野はショートもサードも守れるユーティリティプレーヤーでもあり、守備には特に厳しかった。「ずっとノックしっぱなしやもん。試合の日も関係ない。1時間ノックを受けてヘトヘトになってプレーボールよ。それが続いた」。

入団5年目の1972年に姓を変更…村上から母方の正岡へ

 森下氏のことは忘れられないという。「あの人にしごかれて良くなったからね。やられている時は『このヤロー』って思っていたけど、後で考えたら、やっぱり、あの時があったからやなって思えるからね。体もできてきたし、森下さんのおかげで正岡という人間が出来上がったんだろうな」と感謝している。「あの頃、俺はどうすればプロで長くやれるかって考えた。バッティングはアカンけど守備は得意やから、チームでナンバーワンになればいいんだと思った」と振り返る。

 正岡氏は1987年から中日・星野仙一監督の下で1軍守備コーチを務めた。その時に加藤安雄バッテリーコーチが、中村武志捕手を試合があろうとお構いなしに鍛え上げた。中村氏はそれこそヘロヘロ状態で毎日、試合に臨んでいたが、正岡氏は昔の自分を見る思いだった。「それくらいは当たり前やったからね。タケシ(中村)もあれがあったから、ずっとやれたんや。体力もあったしな、あいつは」。それを思い出すほど、若い時の猛練習は正岡氏のプロでの基盤を作った。

 4年目の1971年に正岡氏は1軍で35試合に出場した。45打数10安打だったが、結果以上に気になったのは怪我が多かったことだという。「1軍でイレギュラーしたのが顔に当たって大怪我したり、捻挫もあったし、盲腸もあった」。それを心配したのが母・靜子さんだった。「お袋が『苗字を正岡に変えた方が、運がものすごくいい方向に向くと言われた』って。なんかみてもらったそうで、それで変えた」。

 それまでの正岡氏の苗字は村上だった。それをプロ5年目の1972年から母方の苗字の正岡にした。「親父とお袋はだいぶ前に別れていたんだけどね。俺の場合は村上より正岡の方が、字並びがいいということだったんでね。それがヒットだった。そこから本当に怪我をしなくなった。運もよくなったんだよ」。村上から正岡になって、ショートのレギュラー争いに参戦したり、優勝も経験したり、内野守備のスペシャリストの道も開けていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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