1試合2発も「キレられた」 一発量産で“色気”…狂った打撃「もう直せなかった」

中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】
中日で活躍した野球評論家・彦野利勝氏【写真:山口真司】

彦野利勝氏は1989年、前半戦で18HR…タイトルを意識した

 目指したのは1985年の阪神・真弓明信外野手だった。元中日外野手で野球評論家の彦野利勝氏はプロ7年目の1989年、キャリアハイの26本塁打を放った。チームは3位に終わったものの、一発長打もある1番打者として、他球団には脅威の存在になった。その理想像が真弓氏だったわけだが、彦野氏は残した数字よりも「スイングが知らないうちに大きくなってしまった」と反省しきり。「アホなんでホームラン王になれるんじゃないかと思ってしまったんですよ」という。

 1988年に星野仙一監督率いる中日は途中からぶっちぎりでセ・リーグ優勝を成し遂げたが、日本シリーズは西武に1勝4敗、日本一には届かなかった。彦野氏は全試合に「1番・センター」でスタメン出場し、第3戦(西武球場)で愛知高時代にも対戦した名古屋電気(現・愛工大名電)出身の西武・工藤公康投手から先頭打者弾を放った。しかし「僕の唯一の日本シリーズで良かったのはそこだけ。(5試合で)2安打しかしていませんから」と厳しい表情で振り返った。

 高校時代にある程度、打ち崩していた相手だっただけに「いきなり打って自分の中で勝手に相性なのかなって思いましたけどね。でも、その後(の3打席)は抑えられたし(プロでは)それっきり対戦がなかったんで、相性が良かったのか、悪かったのかはわかりませんでしたね」。それよりも西武に負けたことが悔しかった。星野仙一監督は中日ナインに西武・森祇晶監督の胴上げを「目に焼き付けておけ!」と指示。彦野氏も出直しを誓った。

 そんな形で迎えた翌1989年シーズン、彦野氏のバットは威力を増した。花粉症持ちのため春先はエンジンのかかりが悪く、4月は打率.226で3本塁打だったが、時の経過とともにに打棒が爆発した。特に目立ったのが本塁打の量産で、5月に4発、6月に5発、7月に6発。前半戦終了時点で18本塁打をマークした。その時にタイトル獲りまで意識してしまった。

後半は8本塁打「バッティングが雑になった」

 監督推薦でオールスターに初出場し、7月26日の第2戦(藤井寺)でホームランを放ち、MVPにも輝き「『ホントにいけるんじゃないか』って思ってしまったんです」。しかし、後半は8本塁打。「バッティングが雑になった。大振りで強引になったり……。普通にやったら30本は楽に超えると思っていたのに26で止まったということはそういうことですよ」。

 実は星野監督から“注意報”が出ていた。まだ前半の7月4日のヤクルト戦(金沢)でのこと。「僕は先頭打者ホームラン(14号)を打ったんですが、2打席目はファーストフライ。それがホームラン競争でもしているようなスイングに見えたんじゃないですかね。『なんちゅうバッティングをしているんじゃ!』って監督に怒られたんです」。だが3打席目が何とホームラン(15号)。そして4打席目はまた本塁打狙いがありありのショートゴロで「また怒られました」と苦笑した。

「ホームランを2本打って半分キレられた」。今思えば、この時の闘将の声をきっちり受け止めて実行に移すべきだった。「(後半戦の)途中から僕も雑だなって思っていました。でも、もう直せなかったんです」。時すでに遅しだったということか。「打率も(.275で)3割くらい打ってもよかったのにできなかったし、打点も(59で)60もいってないでしょ。ホームラン数(26本)を考えれば、もうちょっとあってもいいんじゃないのって思ったし……」と唇をかんだ。

 目標にしていた1985年の真弓は打率.322、34本塁打、84打点。その域には到達できなかった。「プロに入って2軍でも1番が多かったから、あの年の真弓さんを見て、理想型はこれだって思った。全然及ばないんですけど、ああいう選手がいいなって思ったんですけどね」。でも目指したことに後悔はない。「相手ピッチャーにしてみれば、ホームランと打率を残す1番バッターは嫌なんじゃないかって、いまだに思っていますよ」。彦野氏はそう言い切った。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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