守備練習しても「意味がない」 代打生活に“慢心”…突然の先発で悪夢の大怪我

中日で活躍した彦野利勝氏【写真:山口真司】
中日で活躍した彦野利勝氏【写真:山口真司】

彦野利勝氏は1994年にカムバック賞も翌年は不調→代打の切り札に

 何かが前年とは違っていた。野球評論家の彦野利勝氏は中日での現役時代を振り返るなかで、プロ13年目の1995年に関して首を傾げた。「もやもやっとしているうちに終わった年なんです」。1994年に規定打席に到達するなどレギュラーに再定着。右膝蓋腱断裂の大怪我から復活したことによりカムバック賞も受賞したが、その状態を継続できなかった。「同じことをして94年は動けたのに、95年は動けないというか……」。また野球人生の流れが変わっていった。

 1995年の彦野氏は93試合の出場で打率.215、1本塁打、20打点。すべて前年(1994年)を下回った。スタメン機会も減っていき、代打で使われることが増えた。「何かすっきりしない1年でした。もうひとつ体のキレがないというかね」と厳しい表情で話す。「今思うとですけど、もしかしたら、もうちょっとトレーニング方法とかを変えなければいけなかったのかもしれないし、生活リズムとかもね……」。

 前年は巨人との10・8最終決戦で盛り上がったチームも、打って変わって低迷。退任予定から一転して続投した高木守道監督は6月3日から休養となった。1996年シーズンからは再び、星野仙一氏が監督に就任したが、彦野氏のポジションは主に代打だった。「代打で行くとは言われてなかったですけど、もう扱いがそうでしたね。でも、この年はまだ、スタメンで行けと言われた時のために準備はしておかないとな、って思ってやってはいましたよ」。

 プロ15年目の1997年になると、その考え方も変わった。「もう9分9厘、代打ですから、試合前のウオーミングアップから作り方は代打用にしました。無駄なことはしない。1打席のための練習だけをしようと思いました。僕が捕球練習しても意味がない。守備で出ることはないわけですからね」。そのやり方で結果も出た。「無茶苦茶良かったです。途中で異常な時もありましたよ。8の5で10打点とかね」。代打の切り札的な存在になった。

 5月9日の広島戦(ナゴヤドーム)では玉木重雄投手から代打ホームランもかっ飛ばした。「あれは記念になりました。ナゴヤドームでも打てましたからね」。結果的には、これが現役ラストアーチになるのだが、打撃好調のその時は思うはずもない。しかし、そんないいときに限って……。6月に右ふくらはぎの肉離れ。痛恨の故障で離脱することになったのだ。

久々のスタメンで捕球の際に肉離れ…長期離脱となった

 6月26日の広島戦(広島)だった。この日、彦野氏は「6番・センター」でスタメン出場していた。「前の日に星野さんが『明日1日だけ、お前スタメンいけないか』と言われた。周りが調子悪くて、僕は代打で良かったんでね。行けませんとは言えないじゃないですか。『大丈夫です』と言いましたよ。久々だったけど、一応準備してね」。初回に打席が回ってきて、先制タイムリーを放った。ここまでは良かった。

「ポンとタイムリーも打ったし、気分よくセンターの守りに行ったんですけど、先発の門倉(健)がいきなりつかまって、最後、左中間に深いのを打たれて……。走っていって、半分ジャンプしたような形で捕ったんですけど、その時に痛めてそのまま交代です」。まともに守備練習をしていなかったのが響いた。「サボっちゃいけないということ。それなりに普通の練習はしておかなければ駄目なんだってよくわかりましたね。やっちゃってからでは遅かったけど……」。

 故障が癒えて1軍に戻ったのは8月下旬だった。「2軍の試合にはそれよりも前から出ていたし、僕は『もう大丈夫です』と(2軍監督の)正岡(真二)さんに言っていたんですけど、なかなか上げてもらえなかったんです。半月近くは遅れて上がったような感じでした。チーム状態もよくなかったし、そう必要でなかったのかもしれないですけどね」。

 1軍復帰後の彦野氏はシーズン序盤のような打撃を見せることはできなかったし、出番自体も少なかった。ナゴヤドーム元年だったこの年の中日は結局、最下位に沈んだ。何とかしなければいけない。それまで苦難を何度も乗り越えてきた彦野氏は、もちろん、また巻き返すつもりでいたのだが……。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

JERAセ・リーグ

RECOMMEND

KEYWORD

CATEGORY