念願の移籍成就も“恩師”は不在 肉離れ連発…干されて戦力外危機「嫌われてたのかな」

オリックス、阪神でプレーした葛城育郎氏【写真:山口真司】
オリックス、阪神でプレーした葛城育郎氏【写真:山口真司】

葛城育郎氏は2003年オフにトレードで阪神へ…オリ在籍は4年間だった

 2003年オフ、プロ4年目のシーズンを終えたオリックス・葛城育郎外野手(現、株式会社葛城代表取締役、報徳学園コーチ)は牧野塁投手とともに阪神に移籍した。斉藤秀光内野手、谷中真二投手との2対2の交換トレードだった。「セ・リーグに行きたかったのでうれしかったですね」。心機一転、気合を入れ直しての新天地行きだったが、野球人生は本当にいろいろ。阪神でも山あり谷ありの状況が待っていた。

 葛城氏は2003年、オリックスで114試合に出場し、打率.251、9本塁打、30打点の成績だった。この年のオリックスはスタートからつまずき、開幕して1か月で石毛宏典監督が解任され、レオン・リー監督となったが、最下位から抜け出せないままシーズン終了。レオン監督は辞任し、新たに伊原春樹氏が監督に就任した。そんな中、葛城氏の阪神行きが決まった。

「オリックスの秋のキャンプが宮古島であって、僕も強化指定選手だったんです。でもメニューを見ても全然、強化されていないんですよ。おかしいなと思ったら、2クール目くらいにトレードとなった。僕は足も遅いし、バントもしないし、小技も使う伊原さんの野球には合わなかったと思います」。とはいえ、行き先が2003年にリーグ優勝し、大フィーバーとなった阪神と聞いて、うれしかったという。

 オリックスでくすぶっていた中、倉敷商の大先輩である阪神・星野仙一監督に「なんとかしたるわ。でも結果も出さないと駄目だぞ」と言われ、その言葉を励みにプレーしたが、本当に阪神に行けた。「選手に目をかけてくれる方ってことは知っていたんですが、ここまで力があるなんて、と思いましたね」。ただし、星野氏は2003年シーズンで勇退し、シニアディレクター(SD)になり「さぁ、星野さんとやろうと思ったら、あれ、いないんだって思いましたけどね」。

 逆指名でオリックス入りし、わずか4シーズンでトレード。「みんなびっくりしていましたけど、うれしかったです。(阪神新監督の)岡田(彰布)さんも僕のことを見てくれていたみたいで……」。環境が変わり、やる気ばかりがみなぎった。2004年、プロ5年目で阪神1年目の葛城氏は主に代打で起用されたが、できることを精一杯こなした。6月8日の広島戦(福井)では「6番・一塁」でスタメン出場し、黒田博樹投手から“阪神1号”を放った。

阪神移籍2年目は1試合、3年目は出場機会なし「クビを覚悟しました」

「あの時は(ジョージ・)アリアスが怪我でファーストが空いてて、使ってもらった。覚えています。打った瞬間でしたね。場外に消えていきました。黒田さんとは相性がよかったです。すごい見やすかったと思います。自分にはタイミングが合いやすかったですね」。打率.222、3本塁打、14打点のシーズン。数字的には決して良くなかったが、それなりに充実はしていたようだ。

 ところが、翌2005年、また流れが悪くなった。1軍出場は代打での1試合だけ、2006年は1軍出場なしに終わった。岡田阪神が優勝した2005年は2軍で打っても、なかなか上に推薦してもらえなかったこともあったという。「僕は嫌われていたんじゃないですかね」と葛城氏は当時のことを悔しそうに振り返った。

「2006年はキャンプ2日目か3日目に左足の肉離れで出遅れました。それから治ったと思って、さぁ行こうかってなった日にまたやったんです。同じ場所でした。あれでキャンプ中はほぼリハビリ。あの時はきつかったですね。トレーナーもちょっとへこんでいましたね」

 そんな中、当時の島野育夫2軍監督がいつも葛城氏の怪我の状態を気にしてくれたという。「ゆっくりせえ、無理するなよって言ってくれて……」。その後、島野監督は体調を崩し、4月26日から休養となったが、苦しい時期にかけてもらった言葉は忘れられない。だが、この年は結局、キャンプでのつまずきが響き、プロ入り初の1軍出場ゼロ。「クビを覚悟しました。大卒7年目の年でしたから、十分、それはあり得ますからね」。

 何とか戦力外は回避できたが「後で話を聞いたら、ギリギリだったみたいです」と葛城氏は話す。しかし、そこからまたよみがえった。2007年から1軍出場機会が増え、2008年はヒーローインタビューでの雄叫び「ウォーーー」が話題に。ドラマ続きの野球人生。「人だったり、巡り合わせだったり……」と葛城氏はつぶやいた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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