「息子さんに手を」母に謝罪した伝説の左腕 神宮のベンチ裏で…覚醒促した“愛の鉄拳”

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏の2年目、1978年に江夏豊氏が広島に加入「僕を変えてくれた」

「サクラサク ユタカ」。元広島投手で野球評論家の大野豊氏は、プロ2年目の1978年シーズン前に島根県出雲市に住む母・富士子さんに電報を打った。開幕1軍を勝ち取った知らせだった。ルーキーイヤーは防御率135.00の屈辱的な成績に終わったが、そこから巻き返した。憧れの左腕との出会いが大きなきっかけだった。南海から金銭トレードで広島に移籍した江夏豊投手の指導によって、大野氏は成長した。

 それはプロ2年目の宮崎・日南キャンプからスタートした。「江夏さんが僕を大きく変えてくれた。いろいろなことを学ばせてもらった。プロでやっていく上で、自分にとって非常にプラスになる出会いでした」。巨人・王貞治内野手、長嶋茂雄内野手を真っ向勝負で抑える阪神・江夏投手は大野氏にとって憧れの人。出雲市信用組合時代の背番号28は江夏氏の阪神時代の背番号にあやかっていたほど。そんな雲の上の人に教えてもらうだけでも夢のような出来事だった。

「フォームは変わりました。以前は右腕が高く上がって、左肩が下がる、目標は脇から見るような投げ方、シーソー運動みたいな感じだったんですが、それでは無駄な動きが多いということでね。肩のラインをスクエアにして脇からではなく、肩のラインから目標を見てみようってことで、右腕は非常に下げられましたね。するとコントロールがよくなって安定してきたんです」

 新加入の江夏氏の周りには絶えずメディアの目があった。そんな中でキャッチボールの相手を務めた。「常に人から見られていることを感じ、これがプロなんだと思った。有名になって力をつければ人が集まって見てくれるんだとね。メディアは江夏さんを見ているだけで防御率135.00の男なんておまけもおまけですが、自分もいずれ、見てもらえるようなピッチャーになりたいという気持ちにもさせてくれましたね」。

 キャッチボールに関しても指導を受けた。「キャッチボールをしっかりしないと後につながらない。キャッチボールでやったことがブルペン、ブルペンでやったことがゲームに生かせる。みんな関連性があるということで、とにかくキャッチボールをしっかりやるようにと。1球1球丁寧にやって、投げるタイミングとかリリースするポイントのタイミングとか、そういうものをつかんで受けやすいところに投げられるようにと言われました」。

開幕1軍切符を掴み、出雲の母に電報で「サクラサク ユタカ」

 江夏氏の教えはまだまだいっぱいある。「『ボールとお友達になりなさい、日頃からボールになじむように』と言われたし『マウンドにいる限りは打たれても何しても前を向いて胸を張りなさい。打たれたからといって膝に手を当てたり座り込むとか、そういう姿勢は一切出すな』とも……」。結果も出た。「2年目のオープン戦で、確か僕は15回無失点だったと思います。自信になったし、江夏さんの言われたことをやれば成長できるという気持ちにもなりました」。

 開幕1軍切符をつかみ、出雲の母には電報で知らせた。それが「サクラサク」だった。2年目の大野氏は41登板で3勝1敗、防御率3.75。1978年8月12日のヤクルト戦(広島)では4回途中からリリーフ登板し、5回2/3を無失点で最後まで投げきり、プロ初勝利。「江夏さんに『スーツを買ってやるよ、次の甲子園遠征に仕立屋が来るから生地を選べ』って。ちょっと薄い水色の生地を選んで作ってもらいました。ありがたかったし、うれしかったですよ」。

 一方で鉄拳を食らったこともあった。「神宮のベンチ裏に呼ばれて『今日のキャッチボールは何だ!』って言われてね。肘がおかしくて、それを言わずに投げていたのでね。でも、殴られてもうれしかったです。それだけ自分のことを見てくれて、自分のことを気にしてくれるという捉え方をしていましたから。その後、江夏さんは僕の母親に『息子さんに手を出してしまいました』と電話をされていたそうです。厳しい人だけど優しい人だなとも思いましたね」。

 2年目の大野氏は1978年10月9日のヤクルト戦(神宮)でプロ初完封勝利もマーク。シーズン完封負けゼロを狙ったヤクルト打線をラストの130試合目で2安打に封じる快投だった。「その前日(10月8日)のヤクルト戦で、僕はマニエルに満塁ホームランを打たれたばかり。なんで先発なんだろうと思いながらマウンドに上がったんですけどね」と笑みを浮かべながら振り返ったが、これも江夏効果で成長した証しだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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