監督とベンチで口論「人前ではダメ」 1年で辞任…“仲良し政権”が招いた「失敗」

元広島・大野豊氏【写真:山口真司】
元広島・大野豊氏【写真:山口真司】

大野豊氏は広島で計4年、2004&2008年五輪でコーチを務めた

 広島OB会長で野球評論家の大野豊氏は1998年の現役引退後、4度ユニホームを着た。1999年の達川カープ、2004年アテネ五輪、2008年北京五輪、2010年から2012年までは野村カープで投手コーチを務めた。だが、満足いく仕事はできなかったという。「指導者の難しさを感じましたね」。現役時代は自分の選択に悔いはなかったが、コーチ時代については「もうちょっとしっかりやればよかったとか、うまくやればよかったとかありましたね」と表情を曇らせた。

 1998年シーズン限りで現役を引退した大野氏は、ユニホームを脱ぐことなく1軍投手コーチに就任した。長年バッテリーを組んだ同い年の盟友、達川光男(当時は晃豊)氏が新監督に就任。上土井勝利球団本部長に「達川が監督になるからちょっと頑張ってやってくれ」と言われ、「多少でも力になれればと思って引き受けた」という。だが、結果を残せなかった。達川広島は5位に終わり、チーム防御率はリーグ最下位の4.78。1年で退任した。

「自分はいいところを褒められるよりも、悪いところを指摘されて、それを直していってよくなったタイプだったから、そっちの方がと思って入ったのが自分としては失敗でした。いいところを見てあげて、いいものを伸ばしながら、できないところを修正、矯正するような感覚でいった方がよかったかなと思います。それぞれの今の力量、性格もあるし、考え方とかも聞いてあげてコミュニケーションをとりながら、やる必要がありましたね」

 達川監督とベンチでやり合ったこともあったという。「ピッチャー起用でどっちかといったら彼は何かあったら早く代えたい。こっちはどっちかというと乗り越えるために我慢して辛抱したい。そういうところでちょっと食い違いがあって……。これも反省材料です」。仲のいい2人だからこその“言い合い”でもあったが「彼は監督なんです。そういう話をするのなら、みんながいない時にやらなければいけなかった。人前では絶対駄目だったんです」。

 わずか1年でやめたのは、そんな背景もあった。「あくまで僕の考えですけど、僕が達川の下でやっていたら、達川が思う通りにできないのではっていうのがありました。気心を知りすぎて逆に僕は言っちゃうから。彼には悪かったです。選手にも悪かったですね」。初めてのコーチ経験はほろ苦いもので終わった。

長嶋茂雄監督から「今度のオリンピックのコーチ、よろしくお願いしますね」

 2004年のアテネ五輪では野球日本代表の投手コーチに就任した。「長嶋(茂雄)監督から留守電に『もしもし、大野さん、今度のオリンピックのコーチ、よろしくお願いしますね』って入っていたのが最初でした」。長嶋監督が病で倒れ、中畑清ヘッド兼打撃コーチが監督代行となり、高木豊守備走塁コーチとともに戦ったが、結果は銅メダルだった。

「準決勝でオーストラリアにやられてしまったのがねぇ……。今でも覚えています。松坂(大輔)が力投して頑張りながらも(6回に)キングマンって(それまで)“ノー感じ”だったバッターにスライダーをライト前に打たれて、それが決勝点になって結局、0-1で負けた。悔しかったですね」

 2008年の北京五輪でも野球日本代表投手コーチを務めた。監督が星野仙一氏で、ヘッド兼打撃コーチが田淵幸一氏、守備走塁コーチが山本浩二氏の同い年の“親友トリオ”。その中に9歳年下の大野氏が加わった。誘われたのは2007年1月。「大分でゴルフをしていて、ハーフが終わってケータイを見たら浩二さんから着信がいっぱい入っていたんです。何だろうと思って電話したら『オリンピックのピッチングコーチ頼むな』って」。

 すぐに返事できる話ではない。「『ちょっと待ってください』と言ったら『ちょっと待て、仙に代わるわ』と。星野さんにも『はい、頼むな』って言われたので『いや、ちょっと待ってください』と答えたら『えーー、待てぇ……。なら、そこまで行って俺が土下座して頼もうか』って」。大野氏は「そう言われたらもう『わかりました、お願いします』しかないですからね」と当時を思い起こした。しかし、その北京も……。

「4位に終わってメダルもなかったですからね。ああいう大きい大会になると力があっても思うように発揮できず、ピッチングでもしっかり投げきれないケースってあるじゃないですか。プレッシャーの中で勝てない状況を作ってしまったことは非常に申し訳なく思っています」。五輪後、激しかった星野監督へのバッシング。「僕にも責任はあったのに、全部星野さんにいった感じで……」。それもまたつらかったという。

広島コーチ時、「やめてしまえ!」のヤジに反応「3年待ってくれ」

 2010年からはカープのユニホームに再び袖を通した。後輩の野村謙二郎氏が監督で1年目はヘッド兼投手コーチ、2、3年目は投手チーフコーチだったが「謙二郎の力にはなれなかったなと思う」と話す。「達川の時のことがあったから、謙二郎の時はとにかく言われたこと、監督がやりたいことをやらせてあげようと口答えしたことは1回もない。でも振り返ってみると謙二郎にこそ、彼とのコミュケーションも踏まえてもっと自分から言った方がよかったかなと……」。

 野村カープ1年目は5位。チーム防御率もリーグ5位の4.80で終わったその年は、神宮球場での出来事が忘れられないという。「神宮は試合後、クラブハウスに向かってフェンス沿いを歩いて引き揚げるけど、ある時、4、5人の若い青年たちに『やめてしまえ!』ってヤジを飛ばされた。4点台の防御率ですからファンとしたら面白くないですよね。でも自分の子どもみたいな若い人にそこまで言われて、ちょっと腹が立つし、頭にきちゃってねぇ……」。

 大野氏はフェンスの方へ向かった。「青年たちに『3年待ってくれ、それで結果が出なかったら辞めるから』と言いました。それを言ったら彼らも黙っていましたよ」。2年目のチーム防御率は3.22、3年目は2.72と年々数字は良くなった。しかし、チームは5位、4位と結果にはつながらなかった。大野氏は神宮のファンとの約束を守るようにユニホームを脱いだ。「あの時のことを、彼らは覚えていないかもしれないけどね」。

 野村監督との間にも“すきま風”が吹いていたという。「僕は監督にあまり付き合わなかったし、会話も減ってきた。その時は謙二郎も僕のことをあまりいいようには思ってなかったんじゃないかな。ピッチャー陣は本当によく頑張ってくれたけど、3年やって自分としては引き際だと思ったんです」。大野氏が去った後の野村カープは2013年、2014年といずれも3位。緒方孝市氏が監督を引き継いだ2015年は4位だったが、2016年から2018年は3年連続リーグ優勝を成し遂げた。

「それも流れというか、タイミングですよね。監督になったタイミングとか、チームが変わるタイミングとか……。佐々岡が監督で苦労して新井の時に結果が出るとか、大変な思いをする監督もいるけど、それがあったからこそいい思いができる。チーム成績が悪くても(前任の)彼らがやってきたことが次に生かされてチームが強くなっていく。そういうふうに思ってもらえることがいいことじゃないかと思いますよ」

 大野氏にとって4度のコーチ業は結果を残せず、苦しいことの方が多かったのかもしれない。仕えた4人の指揮官に対する「申し訳なかった」との言葉は必ず出てきた。しかしながら、必ず次の世代に何かを残してきたのもまた事実だ。2度の広島コーチ時代を振り返り「最初の監督が同級生で、次の監督は年下。これが年上の人だったら、また違ったと思うんですけどね。でもいい経験をさせてもらいましたよ」。そう言って大野氏はようやく笑みを浮かべた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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