闘病の弟分から「目に見えない力」 忍ばせた痛み止めと胃薬…今は亡き後輩と戦った1年

現役時代を共にした津田恒実(右)と大野豊【写真:共同通信社】
現役時代を共にした津田恒実(右)と大野豊【写真:共同通信社】

1991年、大野豊氏とWストッパーの予定だった津田恒実が脳腫瘍で離脱した

 元広島投手の大野豊氏(広島OB会長、野球評論家)は22年間の現役時代に先発も中継ぎも抑えもすべて経験した。その役割は首脳陣の判断によるものだったが、1度だけ自ら配置転換をお願いしたことがあったという。プロ14年目の1990年シーズン中、山本浩二監督に「リリーフに回してもらえないでしょうか」と直訴した。先発としての自身の働きに納得できなくなったからだった。そして1991年、津田恒実投手の“力”を借りてクローザーとして力を発揮した……。

1989年から広島は“ミスター赤ヘル”山本監督体制になった。その年がプロ13年目の大野氏は19登板で8勝6敗。9月27日の巨人戦(東京ドーム)では区切りの通算100勝にも到達した。防御率は1.92で前年(1988年)の1.70に続いて1点台をマーク。しかし、肩や肘の状態が思わしくなく、登板数を減らした。「肩はルーズショルダー、肘にはネズミ(遊離軟骨)があった。全国いろんなところに治療に行きました。故障はけっこうあったんですよ」。

 痛みが出ても、手術はせずに治療でその都度クリアしていたそうだが、1990年は先発として納得できない投球が続いた。「先発として9回を投げるのが当たり前、その試合は自分が責任を持って投げきるとの思いでやってきたんですが、その年は1イニング、1イニングがすごく長く感じるようになった。で、勝てない。そういう状況が続いて、これはちょっとやめる時期が近づいてきたのかなって思うほどになったんです」。

 8月4日の巨人戦(広島)で敗戦投手となり、この時点で6勝10敗、防御率3.50。黒星が2桁になったところで、大野氏は山本監督にリリーフへの配置転換を申し出た。「そんなことを自分から言うのは初めてだったんですけどね。それで終盤からリリーフになりました」。かつて二度とやりたくないと思った抑えでマウンドに上がった。結局、その年は6勝11敗3セーブ、防御率3.17。「その時から来年は僕と津田でダブルストッパーでって話でした」。だが……。

 2番手で登板も、アウトを奪えずに2失点降板した1991年4月14日の巨人戦(広島)を最後に津田が離脱した。体調不良が続いており、精密検査の結果、悪性の脳腫瘍と判明した。「ついこの間まで元気だったのでね。家では頭が痛いとかいろいろあったようだけど、それを黙ってグラウンドで投げていて……。あの時は水頭症って発表されていたけど、大丈夫だろうって思いしか僕にはなかった。津田がいない分、抑えは僕ひとりでやらなければいけないという不安はありましたけどね」。

 1981年から3年間、大野氏は江夏豊の後任の抑えを務めたが、失敗続きで先発に回った経緯もあった。しかし、今回は自身が希望してのリリーフ転向。抑え役を任された以上はやるしかなかった。「それにね、若い頃みたいに無茶なイニングまたぎもなかったし、1イニング勝ちゲーム限定で準備も入りやすかったんです。過去に嫌な思いを経験したのが生かされた抑えだったと思う」。何よりも「津田のためにもやらなければいけないと思いましたからね」と話した。

広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】
広島で活躍した大野豊氏【写真:山口真司】

広島が優勝した1991年「津田に後押しされている感覚がずっとあった」

 4月18日の阪神戦(甲子園)から7月9日の巨人戦(札幌円山)まで大野氏は14試合連続セーブの日本記録(当時)を達成した。「それまでは(西武の)鹿取(義隆)の10が記録だった。8になったくらいから周囲が騒ぎ出しましたね」。結果、記録を14にまで伸ばしたわけだが「その時、思ったのは記録はうれしかったけど、記録のために気を使われたのが……。投げさせたいけど、セーブがつかないから投げさせないなんてこともあったんでね」と複雑な思いもあった。

 7月11日の巨人戦(札幌円山)で8回途中から先発の佐々岡真司をリリーフした大野氏は2点リードの9回裏、フィル・ブラッドリーに逆転サヨナラ3ランを浴びた。そこで記録は止まったが「チームにも、勝ちを消した佐々岡にも申し訳ないと思いながら、ちょっとホッとしたところもあったんですよ」と当時の気持ちを吐露。「記録も大事ですけど、周りに迷惑をかけているような記録はちょっと好きじゃないですね」と苦笑しながら振り返った。

 この年の大野氏は抑えとしてフル回転だった。37登板、6勝2敗26セーブで最優秀救援投手に輝いた。広島も終盤に首位を走っていた中日をとらえて逆転優勝。津田の本当の病名を知った赤ヘルナインは「津田を優勝旅行に連れていこう」と奮起した。優勝を決めた10月13日の阪神戦(広島)では大野氏が胴上げ投手になった。1-0の8回無死一塁から登板してゼロに封じた。9回は3者連続三振でのフィニッシュだった。

 決して大野氏のコンディションは万全ではなかった。夏場から左肘痛に襲われていたが、痛み止めと胃薬をポケットに入れてブルペンで準備。「試合の流れを見ながら登板の30分くらい前に飲んでいた」という。気持ちで負けるわけにはいかなかった。「病気と闘っている津田にちょっとでも元気を与えられたらっていうのが常にありましたからね」。炎のストッパー津田の座右の銘は「弱気は最大の敵」。その思いが肘の痛みも忘れさせた。

「普段はお茶目でバカなことを言ったりして、誰からも好かれて、いじられているような男がマウンドに立ったら闘争心むき出しの真っ向勝負。それができる凄さ。それを津田から僕は学びました。彼の場合、サインに首を振ったら投げるのは100%真っ直ぐ。もう相手がわかっていても、それで勝負できる強さ。それくらいすごいストレートを投げていましたよね。かわいい後輩でもあり、弟分でした。けっこう僕になついてくれていましたから」

 広島が優勝した1991年、津田とのダブルストッパーとはならなかったが、大野氏は、その年一人でクローザーを務めたとは考えていない。「津田に後押しされている感覚がずっとあった。本当に目に見えない力で後押しされた。それがあって、できた1年だったと今でも思っているんです」。1993年に32歳の若さで亡くなった後輩を思い浮かべるように話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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