高卒→社会人入団も「やることはなかった」 密かに抜いた電話線…苦痛だった“留守番”

元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】
元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】

久慈照嘉氏は東海大甲府高から日本石油へ…2年目で遊撃のレギュラーを掴んだ

 転機は社会人時代にあった。阪神、中日で内野守備のスペシャリストとして活躍した久慈照嘉氏は、日本石油(現ENEOS)で2年目の1989年からショートのレギュラーになった。新日鉄堺・野茂英雄投手(元近鉄、ドジャースなど)、プリンスホテル・石井浩郎内野手(元近鉄、巨人など)、熊谷組・佐藤和弘外野手(パンチ、元オリックス)らとともに遊撃手として社会人ベストナインにも選出されたが、これには日本石油・林裕幸監督との出会いが大きかったという。

 1988年、久慈氏は日本石油に入社した。「東京支店経理課に配属されました。朝9時出社で練習は昼からでした」。川崎市内の寮の最寄り駅から霞ヶ関までの満員電車も経験し「最悪でしたよ」と苦笑しきり。「会社ではやることがほとんどなかった。『ゴミを捨ててきて』『シュレッダーにかけてきて』と言われて、対応するのが仕事でした。席についていたのは最初の20分と最後の30分。それ以外は(野球部の)先輩に呼ばれて地下の喫茶店にいることが多かった」という。

「僕のグループは12人くらいいる課で『ちょっと会議に行くから留守番していて』と言われたこともありました。その時はまず『留守番って、もし電話がかかってきたらどうするんだよ』って思いましたね。かかってきても(自動的に)転送される電話はいいけど、困るのは自分のところの電話。それを考えて自分の電話の線を抜いていました。他の電話はなっても、僕のところのはならないようにしていました」。いやはや何とも、の話ではあるが……。

「シーズンオフになると1日出社があるんですけど、その時はつらかったですね」とも話したが、あくまでメインは野球と割り切っていたという。「この先、野球をやめたら会社に残るつもりもありませんでしたしね。それは親にも言っていました。『俺、野球が終わったら(故郷の山梨に)帰るよ』って。親父は建築系で自営業をやっていたから、もし、そうなっていたら親父と一緒にやっていたかもしれない。そうならなかったから、想像つかないですけどね」。

林裕幸監督に鍛えられ、ドラフト候補として注目を集めるようになった

 そんななかで“本業”の方では力をつけていった。1989年の社会人2年目からショートのレギュラーに定着。決勝で住友金属に逆転サヨナラ負けを喫した日本選手権では遊撃手部門の大会優秀選手となり、この年の社会人ベストナイン遊撃手にも選出された。この成長を振り返る上で久慈氏が「大きかったです」というのがそのシーズンに日本石油監督に就任した林裕幸氏の存在だ。

 林氏は東海大相模、東海大を経て1978年に日本石油入りし、現役時代は社会人ナンバーワン遊撃手と評され、1982年のアマチュア野球世界選手権でも日本代表メンバーとして活躍した名選手。久慈氏は「林監督は守備にうるさい人で、形から、ステップから細かい作業はそこで教わりました」と話す。「小中高では守備の技術練習を教わったことがなかった。(高卒2年目の)19歳で初めて守備の指導を本格的に受けたんです」。

 これが久慈氏のもともと定評あった守備力をさらに高めた。ドラフト候補としてプロからも注目を集めるようになった。そもそも東海大甲府高時代の久慈氏に目をつけたのも当時、日本石油のコーチだった林氏。「林監督は僕をショートのレギュラーとして使ってくれたし、本当にこの出会いがあったからだと思います」と感謝している。

 ドラフト解禁となる社会人3年目にはオリックスが久慈氏の指名を検討し、日本石油にスカウトが挨拶に来ていた。当時、久慈氏は右肘を故障し、試合には指名打者で出場しており、そんな状態も加味して日本石油がプロ入りを許可しなかったが、高校の時は夢のまた夢のレベルに感じていたプロ野球が一気に身近になってきた。まさに林監督の指導によって、変わったのだった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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