中日コーチの打診も…拒否して選んだ自由契約 給料減でも貫いた阪神への“愛”

元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】
元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】

久慈照嘉氏は2001年に登録名を「テル」に変更も…“致命的”な怪我を負った

 元中日内野手の久慈照嘉氏は2000年を越えてから苦しい時期が続いた。プロ11年目の2001年は34試合の出場で11打数1安打。若手の井端弘和内野手の台頭もあれば、右脇腹や左ふくらはぎを痛めたことも関係したという。「怪我したところは僕にとって、どっちも致命的な場所だったのでね」。恩師である星野仙一監督の退任も決まった。この年は登録名を「テル」に変更していたが、まさに無念の結果だった。

 登録名を変えたのは中日助っ人のレオ・ゴメス内野手との会話がきっかけだったという。「当時ね、ゴメスが僕のことを『テル、テル』って呼んでいたんです。それで何かギャグっぽく登録名も“テル”でいこうかってなったんですよ。他の選手たちも『久慈もテルも変わらんやん』って。実際、僕はチーム内で“久慈”と呼ばれることがなかった。だいたい“テル”だったんで、僕もじゃあ親近感があっていいかと思ってね」と笑いながら明かした。

「球団に『登録名、テルでいけますか』と聞いたら『いけるよ』って言われて、それでそうなりました。それだけのことでした。(星野)監督にも『テル』って呼ばれていましたからね。球団もよくOKしたなと思います。でも、カタカナになったから、新外国人かと思われた人もいたみたいですね。『引退されたと思ったら、久慈さんでした』というファンレターもありました。それは覚えていますね」。だが、成績にはつながらなかった。

「登録名がカタカナの年に怪我をしたんですよね」と久慈氏は話す。「左のふくらはぎと右脇腹のどっちもやってしまいました。それはちょっと長引きましたね。まぁ、僕にとっては致命的な場所でしたから……」。2001年は井端がショートのレギュラーの座をつかんだシーズン。久慈氏は3月30日の開幕広島戦(ナゴヤドーム)では代打でテルとして初出場し、セカンドにまわった井端のあとでショートに入ってシーズンをスタートさせていたのだが……。

“アライバ”の台頭で出場機会激減…兼任コーチの打診断り自由契約に

 星野監督はそれまで同様、久慈氏を大事なところでの守備固めで起用した。信頼度は不変だった。ただし、同時に井端を育てるという意味合いもあったのだろう。それまでよりも、わずかながら頻度が減っていた。「なんていうんですかね。張り詰めていたものが、ちょっと緩んだんですよね、それが怪我につながったと思います」。自身の大看板である守備に影響を与える怪我は痛すぎた。その年は7月中旬以降、1軍出場なしに終わった。

 中日は5位に終わり、星野監督は辞任した。久慈氏にとって「テル」としての1年は、まさに無念の結果になった。それでも「星野さんはいなくなったけど、僕の中では怪我さえ治ればできる感があった」という。「テル」の登録名は1シーズンだけで「久慈」に戻した。しかし、山田久志監督になった2002年はさらに出番が減った。「山田さんは井端とか荒木(雅博)とかを本格的に使い出しましたからね」。

 2002年の久慈氏のシーズン初出場は4月7日の広島戦(広島)。途中からショートに入って3打数2安打1打点、広島の左腕リゴ・ベルトラン投手から本塁打も放つなど打撃でもいきなりアピールした。その後はセカンド、ショートの守備固めが中心だったが「また、脇腹をやっちゃったんですよね」。結局、この年は4月に9試合出場しただけだった。「体的に自分では納得の部分もありましたけどね」。それでも「まだやれる」との気持ちはあったという。

 2002年シーズン終了後、中日球団からはコーチ兼任の話をもらった。だが、久慈氏はそれを断って自由契約を希望し、恩師の星野仙一氏が監督を務めていた古巣の阪神に戻ることにした。星野監督とともに中日から阪神に“移籍”していた島野育夫ヘッドコーチから「(星野)監督がお前の枠をとっておく、また同じ仕事をしてくれって言っているぞ」と言われたのが決め手だった。「中日に残った方が給料はよかったんですけどね」。また新たな闘いが始まった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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