急な“引退勧告”に「何で言ってくれないの」 清原加入で移籍消滅…無念だった名手の最後

元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】
元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】

久慈照嘉氏は阪神からのコーチ要請を断って現役続行を目指した

 辞める気はなかった。安定感抜群の守備力を誇った久慈照嘉氏は2005年シーズン限りで阪神を退団した。球団から打診されたコーチ就任を断って、現役続行を目指した。だが、新天地は見つからなかった。2006年のプロ野球キャンプインを目前にした1月31日で現役生活終了を決意。セ・リーグ新人王に輝き、中日、阪神で優勝も経験した球界を代表する遊撃手は引退試合どころか、引退会見もすることなく自らケジメをつけた。

 阪神は2004年から岡田彰布氏が監督に就任し、2005年にはリーグ優勝を成し遂げた。2004年の久慈氏は31試合の出場ながら、ショートの控えとしてチームに貢献した。しかし、鳥谷敬内野手がショートのレギュラーに定着した2005年は出番がさらに減った。仕事の役割は同じで開幕1軍だったが、4月15日に登録抹消。5月5日に再登録されて5月19日に抹消と1、2軍を行ったり来たりだった。

 次に登録されたのは8月31日で、岡田阪神が優勝を決めた9月29日の巨人戦(甲子園)の翌日の9月30日に抹消されてレギュラーシーズンを終えた。その間、出場したのはわずか3試合。ほとんどがベンチで待機する日々だったが、この年はまだ続きがあった。日本シリーズだ。当時はパ・リーグだけプレーオフが行われており、2位から勝ち上がったロッテとのシリーズは10月22日に千葉マリンスタジアムで開幕し、阪神は0勝4敗で敗れた。

 そのシリーズで久慈氏の出番は第4戦(10月26日、甲子園)の2-3で迎えた9回裏。無死から四球で出塁した片岡篤史内野手の代走だった。「矢野(燿大)さんがバントを失敗してフライが上がって、三塁が捕るか捕らないかという感じで、結局捕られて(一塁走者の)僕が一塁に戻れなかったんですよね」。矢野の送りバントがサードフライになっての併殺で2死走者なし。続く藤本敦士内野手が三振に倒れてゲームセット。阪神の日本シリーズ敗退が決まった。

 結果的にはそれが久慈氏の現役ラストプレーになったわけだが、この時は「そこで終わるとは思ってもいませんでした」と明かす。「その次の日ですよ。黒田(正宏)編成部長から僕のところに電話がきたのは……。『来年はコーチをやってくれ』って。ハッじゃないですか」。その通達の流れに納得がいかなかった。「普通、日本シリーズ前までに言うんじゃないですか。しかも、あの年は(レギュラーシーズン終了から)シリーズまでだいぶ時間があったんですよ」。

 さらにこう続けた。「前の年に引退した八木(裕)さんは9月には通達されている。年齢的に順番なら次は僕でしょ。何でそれまでに言ってくれなかったんですか、何で昨日の今日なんですかってなりますよ」。現役を引退してのコーチ就任の打診を受けた後、久慈氏は当時、阪神のシニアディレクター(SD)だった恩師の星野仙一氏にすぐ電話したという。

清原和博、中村紀洋の入団で幻に終わったオリックス入り

「こんなふうに言われましたと伝えたら『悔いが残らないように、嫁と子どもが困らないように、ちゃんと進路を決めなさい。困ったことがあったらいつでも連絡してこい』って言われました」。そんな相談を経た上で現役続行を目指して12球団合同トライアウトに挑戦することにした。11月7日はファイターズ鎌ケ谷スタジアム、11月25日は神戸総合運動公園サブ球場。「どちらにも行きました。アピールにも成功したと思います」。実際、オリックスから話が来たという。

「オリックスは中村(勝広)GMが監督になる時で、中村さんも僕のことを知っているじゃないですか。まだ全然できるな、ということでね。ただ条件がひとつあって中村紀洋と清原(和博)さんのどちらかがオリックスに入らなかったら、お前が入れって言われました。でも2人とも入って、その話はなくなったんです。僕的にはオリックスがいいなって思っていたんですけどね」。他に楽天からも話はあったが、こちらも最終的には見送りとなったそうだ。

 それでも久慈氏はさらなるオファーが来ることを信じて、体作りに励んだ。「中日で一緒にやった宣銅烈さんが(韓国プロ野球の)サムスンの監督をやっておられたので、そこのグアム自主トレに参加して体を動かしながら、どこかあればなぁと思って(2006年)1月31日までは頑張っていました」。韓国や台湾から話はあったが、あくまで日本でのプレーにこだわった。だが、その日までに声はかからなかった。

「2月1日のキャンプを迎えるまでに、と思ってやっていましたけど(オファーが)なくて1月31日で引退ということにしました。結局、プー太郎になりました。僕は引退会見もしていないし、すーっと自由契約になったままやめていったという感じですよね」と自身でケジメをつけた。明るく笑みも浮かべながら振り返ったが、当時はやるだけのことはやったとの思いとともに、無念の思いもあったことだろう。

 プロ通算14年間で1199試合に出場したショート守備の達人であり、バント職人でもあった久慈氏。「あと1試合出たかったなって。きりのいいところで1200(試合)で終わりたかったんですけどねぇ……。まぁ、それも僕らしくていいですかね、1199で」。新人王に輝き、レギュラーを続け、トレードも経験した前半の7年間。守備固めなどの控えの仕事でチームに貢献した後半の7年間。どちらの久慈氏の姿も野球ファンには強く印象に残っているはずだ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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