練習サボり、阪神4番が“酒浸り”「完全に腐っていた」 相次ぐ手術で絶望…自暴自棄の日々

2003年06月13日の巨人戦で右肩を脱臼し、退場する濱中治氏【写真提供:産経新聞社】
2003年06月13日の巨人戦で右肩を脱臼し、退場する濱中治氏【写真提供:産経新聞社】

濱中治氏は2003年に1度、2004年には2度右肩手術を受けた

 阪神、オリックス、ヤクルトの3球団でプレーした濱中治氏(野球評論家、関西独立リーグ・和歌山ウェイブスGM)は阪神時代に右肩手術を3度経験した。右肩脱臼、右肩関節唇損傷でプロ7年目の2003年に1度、8年目の2004年には7月と9月に受けた。「3度目の時は自暴自棄になった」という。練習もまともに行わず、酒で気を紛らわせる日々。そんなどん底から救ってくれたのはファンからの激励の寄せ書きだった。

 濱中氏にとって右肩痛は小学6年生からの付き合いだ。田辺市立芳養小の軟式野球部「はやクラブ」のエース兼4番で活躍していた時に発症して以降、明洋中、南部高、阪神と痛みを感じながらも大事には至らずプレーを続けてきた。阪神7年目の2003年に右肩脱臼でリタイアしたのはそんな過去と無関係ではなかったようだ。医師からも「子どもの時にちゃんと治しておけば、とも言われた」という。

 それを踏まえても運命は残酷だった。野村克也監督に配球の大切さを学び、田淵幸一チーフ打撃コーチに下半身に溜めたパワーによる“うねり打法”を教えられ、星野仙一監督には闘争心を叩き込まれ、阪神の4番打者として結果を出しはじめた時の右肩故障。2003年7月に手術を受け、10月のダイエーとの日本シリーズに復帰できたが、故障前の状態には戻らなかったし、8年目の2004年はさらなる試練が待っていた。

 この年から1軍監督に岡田彰布氏が就任。濱中氏の背番号は「25」から、かつてミスタータイガース・掛布雅之氏がつけていた「31」に変わった。「あれはね、岡田さんに25は怪我のイメージがあるから変えたらどうやって言われたからなんです。ただ残っていたのが31だけだったんで、31かぁ、どうしようかなぁって思ったんですけど、自分の中で変わっていけるのなら、の思いも込めて31をつけさせてもらおうってなったんです」。

 2004年シーズンは代打からスタートし、開幕8試合目の4月10日の中日戦(甲子園)に「3番・右翼」でスタメン復帰した。その後、代打に戻ったが、4月21日の中日戦(ナゴヤドーム)からは主に「5番・右翼」で起用された。4月25日の巨人戦(甲子園)では林昌範投手から1号ソロも放ち、再び上昇気流に乗るかと思われたのだが……。「5番・右翼」で4打数無安打に終わった4月29日の横浜戦(甲子園)後に右肩の異常を訴えた。

 そのまま1軍で調整を続け、5月5日の広島戦(広島)に代打で出場したものの、翌6日に離脱、7日に登録抹消となった。「肩がおかしくなって動かなくなったんです。水がパンパンに溜まっていて、抜いてもらったら、ある程度は動くようになったんですけど、結局、また手術しなければいけないとなって7月に受けたんですけど、中がぐしゃぐしゃになっていたそうです」と濱中氏は振り返った。

元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】
元阪神・濱中治氏【写真:山口真司】

湧き起こる絶望感、自暴自棄の日々も…ファンの寄せ書きで“改心”

「2003年に手術を受けて、1か月後にはティー打撃とかしはじめたんですけど、まだ、しっくり馴染む前に早く動いたからか、その時に埋めていたボルトが3つとも外れてぐしゃぐしゃになっていた。その破片を取り除くのが大変だったみたいで、2時間の予定の手術が6時間もかかったんです」。しかも、続きがあった。「やっと手術が終わって切り替えられるかと思ったら、次の日に『もう1度、手術をしないといけない』と言われたんです」。

 その話を聞いて濱中氏には絶望感しかなかった。「7月の手術では破片除去に時間がかかって、結局、脱臼の修復手術をできなかったそうなんです。それでもう1回となったんですけど、もう僕の中では“野球はこれでできないな”と思っていました」。9月に再び手術を受け「うまくいったと言ってもらったんですけど、(2003年から)3回も手術して自分が投げられるイメージは全くなかった」という。

「あの時は自暴自棄になってしまって……。精神的にも追い詰められ、もう野球を諦めていたんで、毎晩、酒を飲んでいました。正直、練習に行かない時もありました。リハビリもすぐ終わってすぐ帰るみたいな感じで、完全に人間として腐っている時期でしたね」。そこから立ち直れたのはファンのおかげだった。「10月頃、リハビリに行った時に(合宿所の)虎風荘にファンの方がひとり、待っていてくれてアルバムを3冊くらい渡されたんです」。

 それを見て、泣いたという。「阪神ファンの方の寄せ書きがいっぱいあったんです。『またライトのポジション待っています』とか『絶対に甲子園に帰ってきてください』とか『濱ちゃん、待ってますからね』とか……。僕はこの人たちを裏切っている、これだけみんなが応援してくれているのに、自分は何しているんだろうって、涙がバーって出てきて、もう1回頑張らないといけない。奮い立ってやらないといけないと思いました」。

 濱中氏はそこから心を入れ替えた。「酒もやめて、リハビリにも真剣に取り組みました」。その結果、2005年は5月から1軍に復帰し、78試合に出場した。2006年は139試合に出場し、キャリアハイの打率.302、20本塁打、75打点をマークした。「あのアルバムがなければ、僕はたぶんあのまま野球人として終わっていたと思います。本当にファンの方には感謝しかありません」と熱い口調で話した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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