暴力事件→甲子園の推薦辞退 同級生は涙、親も納得せず…“無関係”なのに受けたとばっちり|球界群像 羽田耕一#3
近鉄で活躍した羽田耕一氏【写真:山口真司】羽田耕一氏、高校時代は1年秋からレギュラーに定着し2年春に甲子園出場
NPB通算225本塁打をマークした元近鉄内野手の羽田耕一氏は兵庫・三田学園で1年(1969年)秋からレギュラー遊撃手になった。2年(1970年)春の選抜には4番打者として出場。2年夏は兵庫大会準決勝で涙をのんだが、2年秋は兵庫大会優勝、近畿大会準優勝で、1971年春の選抜切符を確定させた。しかし、在校生の暴力事件発覚で推薦を辞退することに……。「野球部は関係なかった。悔しかったですね」と話した。
兵庫の強豪・三田学園で羽田氏は1年夏からベンチ入り。1年秋から遊撃レギュラーの座をつかんだ。甲斐富士男投手と中西弘明捕手のバッテリーは尼崎市立若草中でもチームメートだった同級生。中学3年時に近畿大会準優勝を経験した3人が、高校でも実力を発揮し始めた時期でもあった。羽田氏は中学時代、エース右腕だったが、高校では日下隆監督の指令で野手転向。中学時代に三塁手だった甲斐氏が逆に投手に転向し、それぞれが主力に成長した。
1年秋の兵庫大会は、決勝で洲本実を4-3の9回逆転サヨナラ勝利で下して優勝。近畿大会は準々決勝で島本講平投手を擁する箕島(和歌山)に5-9で敗れたものの、1970年春の選抜出場切符を得た。「島本さんは僕の1学年上ですけど、何か縁があってね。あの人、(1970年ドラフト1位で)南海に行かれて、その後(1975年にトレードで)近鉄に来られて一緒になった。仲がよかったんです。高校の時の話もよくしましたね」と羽田氏は懐かしそうに話す。
暴力問題が発覚し甲子園辞退「野球部は全然関係なかった」
(山口真司 / Shinji Yamaguchi)
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