「獲れるまで帰って来るな!」 巨人入りもあった左腕大争奪戦…闘将に応えたスカウト

元中日・岩瀬仁紀氏【写真:荒川祐史】
元中日・岩瀬仁紀氏【写真:荒川祐史】

近藤真市氏は1996年から中日スカウトに…1998年に岩瀬仁紀の専属になった

 1994年シーズン限りで中日・近藤真市投手(岐阜聖徳学園大学硬式野球部監督)は引退した。怪我に泣いた。プロ1年目に巨人相手に初登板ノーヒットノーランを達成した左腕はわずか8年で現役生活にピリオドを打ったが、違った形でチームを支える立場になった。最初の仕事の打撃投手を経てスカウトに転身。そこで出会ったのがNTT東海の岩瀬仁紀投手だ。星野仙一監督に「絶対獲れ!」「必ず獲れ!」との指令を出されて、どこよりも“密着マーク”を続けたという。

 1994年の沖縄・石川秋季キャンプ中に近藤氏は、現役引退を決断した。球場で高木守道監督に報告し、清水雅治外野手や矢野輝弘(現在は燿大)捕手、享栄高同期の長谷部裕捕手らに挨拶。お世話になった小松辰雄投手、担当スカウトだった水谷啓昭氏(当時は1軍投手コーチ)にも「もう踏ん切りつきました。やめます」と伝えた。「ホテルに帰って、荷物をまとめて、嫁に『やめるわ』って電話しました。嫁にはなんの相談もしていなかった。薄々感づいてはいたみたいですけどね」。

 次の仕事は「現場に近いところでやりたい」ということで1995年シーズンから打撃投手になった。しかし、それはちょっと厳しかった。「持たないですよね。肩が痛いのに。なんでバッティングピッチャーをやるって言ったんだろうって思いましたよ」。その年のオフに星野仙一氏が中日監督に復帰したが、秋季キャンプの時にいの一番に呼ばれたという。

「『お前、どうなんや』って聞かれたので『もう肩は限界です。正直、無理です』と答えたら『そりゃあ、そうだろう。肩が痛くてやめたのに、なんでバッティングピッチャーをやっているんだ!』って怒られました」と近藤氏は明かす。「星野さんは『肩がつぶれてもいいから、この秋だけしっかり投げろ、そして来年からスカウトをやれ』って言ってくれたんです」。こうして中日・近藤真市スカウトが誕生したのだった。

 以来、多くの選手と関わってきたが、忘れられないのがスカウト3年目の1998年に巡ってきた大仕事だ。「ある日星野さんに呼ばれたんです。『愛知県にすごい左ピッチャーがいるらしいな』みたいな話になって『いますよ』と答えたら『何としても獲れ! 獲れるまで帰ってくるんじゃないぞ』って言われたんです」。その選手がNTT東海の左腕・岩瀬だった。「いやいや、帰ってくるなって言われても地元ですけどねって思いながら『わかりました』って星野さんに言って、それから岩瀬専属になったんです」。

 その存在は大学時代から知っていたという。「僕がスカウト1年目の時に岩瀬は愛知大4年で、野手と投手と両方をやっていました。中日では野手として5位か6位で獲ろうかなんて話にはなっていたんですが、NTTの方から指名順位が低いんだったら、ウチに預けてもらえませんかって話があったんです」。それで中日は野手・岩瀬から手を引いた。「あの時、僕らは野手では評価できているし(NTT東海では)できればピッチャーで育ててほしいですねって話をしていたんですよ」。

岩瀬に「付きっきりになろうと思って…必死でした」

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