クビ通告なく“生殺し” 振り回された最終年…決意の登板も同僚にボコボコで「ごめんな」

中日で活躍した近藤真市氏【写真:共同通信社】
中日で活躍した近藤真市氏【写真:共同通信社】

初登板ノーノーの近藤真市氏は3年目以降白星なし…1994年オフに現役引退

 プロ5年目以降はマウンドでの記憶がほとんどないという。日本中を驚かせた1軍公式戦ノーヒット・ノーランデビュー(1987年8月9日、巨人戦=ナゴヤ球場)をやってのけた元中日投手・近藤真市氏(岐阜聖徳学園大学硬式野球部監督)はその後、怪我に苦しんだ。左肩、左肘を手術。光輝いていた高卒ルーキーの頃の状態には、戻りたくても戻れなかった。1試合も1軍で投げることなく終わった8年目の1994年オフに、現役引退を決断した。

 3年目の1989年に左肩を手術、4年目の1990年後半に1軍復帰を果たしたが、0勝4敗に終わった。近藤氏のマウンドの記憶は、そのあたりまでで途絶えている。「4年目に4敗したのは覚えていますけど、それ以降はどこで投げたかも覚えてないんです。最後の先発は、どこになっていますか。最後の登板はいつですか。いやぁ、(答えを)言われても全然、思い出せません」。

 5年目の1991年は4試合に登板して0勝1敗、肘を痛めて、オフに手術にした。6年目の1992年シーズンから背番号が「13」に戻ったが、6試合に登板して0勝0敗。広島・前田智徳外野手に一発を浴びた6月21日の広島戦(広島)が現役最後の先発試合となった。7年目の1993年は1試合に登板して0勝0敗。10月15日のナゴヤ球場での阪神戦に1-5の6回から3番手で登板して、2イニングを無失点に抑えたのが現役最後の登板だった。

 ラスト先発も、ラスト登板も、やめるつもりはない段階でのマウンドで、結果的にそうなっただけ。当然、その日に思い入れも何もあるはずがない。故障のせいで全盛期とはとんでもなく差がある状態。「投げていても、自分のボールがいっているわけじゃないので、記憶にないんですよ、たぶん」。つまらないし、ただ、つらいばかりの日々だった。

 6年目に背番号が「1」から「13」に戻ったのも「1番を種田(仁内野手)につけさせるって理由かららしいです。自分の希望ではないです」。トレード加入の小野和幸投手が西武でつけていた「13」を希望したこともあって、近藤氏は2年目に「13」から「1」へ変更。中日入団時に占いの先生に勧められて決め、大偉業を成し遂げた「13」には思い入れがあっただけに、自身の意向に関係なく譲る形になった時はむなしい思いだった。

 しかし、その栄光の番号が戻ってきた時には、自身の状態が違いすぎた。思うように投げられない歯がゆさがあった。7年目は1軍で1試合に登板しただけ。8年目は1軍登板ゼロ。もはやクビを覚悟した中、その年の高知での秋季教育リーグ(黒潮リーグ)で球団フロントから「お前、どうする?」と聞かれたという。「どうするって、どういうことですかって」と言うと「球団としてはああいう記録も作って、優勝も経験してもらって、やってもらいたい気持ちはあるんだけど、成績もこうだし……」とのことだった。

恩師の星野仙一氏から「ピッチャーの近藤で終われ」

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