監督から無情の引退勧告「気持ちが終わった」 悟った引き際…最終戦は「記憶ない」

元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】
元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】

大石友好氏は1991年限りで引退…退任する星野監督から戦力外を告げられた

 西武、中日の2球団で活躍した名捕手の大石友好氏は1991年シーズン限りで引退した。1979年ドラフト3位で西武に25歳で入団し、1985年に中日へ移籍。通算12年間の現役生活だった。「僕はまだやれると思っていました。肩も衰えていなかったんでね」。それでも決断するしかなかったのは世代交代の波。その年での監督退任が決まっていた星野仙一氏に“通告”された。当時37歳。「寂しい気持ちが強かった」という。

 大石氏は中日がリーグ優勝した1988年、74試合に出場。守護神・郭源治投手とセットの「抑え捕手」として活躍した。1989年もその役割はこなしていたものの、レギュラーの中村武志捕手の成長もあって、出場は33試合と大幅に減った。1990年は157キロの剛速球が武器のドラフト1位ルーキー・与田剛投手が、郭に代わって守護神となり、新たにコンビを組んだ。

「与田は真っ直ぐとスライダーですけど、とにかく真っ直ぐが速いですからね。彼の場合は気持ちよく放らせることだけでよかった。そんなに配球は考えなくても、球に力があるんで凡打になりますからね。源治の場合は同じ真っ直ぐ主体でも、いろんなボールを使いながらだったから対照的な抑え。あまり頭を使わなくてもよかった点では与田の方が楽でしたね」

 与田は5月29日までに8セーブをマーク。ここまでのセーブはすべて大石氏とのコンビによるものだった。だが、その後はこの年の開幕直前にトレードでダイエーから加入した山中潔捕手の台頭もあって、大石氏の出番が少なくなった。与田は31セーブをマークして最優秀救援投手のタイトルを獲得し、新人王にも輝いた。その31セーブ中、大石氏が絡んだのは14セーブにとどまった。そして、プロ12年目の1991年シーズンを迎えた。

 この年はドラフト5位ルーキーの森田幸一投手が抑えを務めて50登板、10勝3敗17セーブで新人王に選出されたが、大石氏の出場は23試合。8月まで首位を走っていた中日は、9月以降に失速して優勝を逃し、星野仙一監督の退任も決まった。そんなシーズン終盤に大石氏は闘将に呼ばれたという。「『球団は来年(の捕手は)、中村武志と矢野(輝弘)を使っていくから。そういうことだから』と言われました」。

星野監督に「引退します」…通告から数日後に決断

 東北福祉大からドラフト2位で入団した矢野は1年目の1991年、大石氏とほぼ同じ22試合の出場だったが、2年目はさらなる成長が期待されていた。「星野さんはやめられるんで(次期監督の高木)守道さんの考えだったかもしれませんが『矢野を使うから来年は構想に入っていない、どうする』って。僕はまだ現役をやれる自信があったけど、バッテリーコーチとして中日に残れる話もあったし『ちょっと考えさせてください』と言いました。寂しい気持ちでしたね」。

 予想もしていなかったという。「星野さんに言われる前も、僕は今中が先発の試合に出て、結果を出していた。だから、聞いた時は、えっ、てなりましたよ」。それでも答えを出すのに、そんなに時間をかけなかったそうだ。「2、3日で星野さんに『引退します』と返事したと思います。もう37歳だし、どちらにしてもそう長く現役はできない。コーチもさせていただけるのなら、その方がいいのかなと。どっちかというと、そうしろって感じでしたしね」。

 星野監督が退任していなければ、現役を続けられたかもしれない。でも、その去り行く闘将がコーチ就任の話も含め総合的に考えて引退を勧めているのなら、従うべきと考えたわけだ。1991年10月15日、ナゴヤ球場での広島とのダブルヘッダー第2試合、シーズン最終戦に大石氏は「8番・捕手」で出場した。打っては2打数1安打1四球、守っては今中、山本昌、米村、与田の4投手とバッテリーを組んで途中交代。これが現役最後となった。

「でも、その試合はあまり記憶にない。最後の試合は広島戦だったな、次からはコーチだなってくらい。気持ちがもう終わっていたからですかねぇ……」。通算683試合に出場。強肩捕手として西武では日本一を経験し、中日でもリーグ優勝に貢献した。初登板ノーヒット・ノーランの中日・近藤真一投手をはじめ、大石氏のリードに助けられた投手は数多い。中身の濃い12年間の現役生活だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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