星野監督に「クソって思うことも」 試合中に凄まじいゲキ…相手より気になったベンチ

中日・星野仙一監督(1987年撮影)【写真:共同通信社】
中日・星野仙一監督(1987年撮影)【写真:共同通信社】

大石友好氏は星野中日1年目の開幕戦で先発マスクを被った

 やられたら、やり返せ! 1987年シーズンから中日を率いた星野仙一監督は闘争心むきだしの野球でチームを変えていった。4月10日の巨人との開幕戦(後楽園)でいきなりユニホームをドジャースモデルに一新するなど話題性も十分。そんな注目の星野ドラゴンズ初戦でスタメンマスクを被ったのが大石友好氏だ。結果は0-6。「期待に応えられなくて申し訳ないという思いが強かったですね」。捕手として感じた当時を明かした。

 あの頃の星野氏の注目度はハンパではなかった。現役時代は「燃える男」と呼ばれ、引退後はNHK「サンデースポーツスペシャル」のキャスターとして人気を博し、満を持して1986年10月29日、39歳で古巣・中日の指揮官へ。就任会見で選手たちに「覚悟しとけ!」と熱いメッセージを送り、実際に浜松秋季キャンプでは猛練習をスタートさせた。

 1986年11月20日のドラフト会議では5球団が競合した享栄高の左腕・近藤真一投手の当たりクジを引き当て、12月23日には3冠王に3度輝いたロッテの主砲・落合博満内野手と中日・牛島和彦投手、上川誠二内野手、平沼定晴投手、桑田茂投手の1対4の“世紀のトレード”を成立させた。1987年のキャンプもオープン戦も、まさにいつも主役は星野監督という感じだった。

 開幕戦の相手は永遠のライバル・巨人。どのカードよりも盛り上がっていた中で、闘将が「戦闘服」と呼んだユニホームをいきなり変え、新生・星野中日をより一層演出した。大石氏は「8番・捕手」でスタメン。中日の先発は1985年にともに西武から移籍した左腕・杉本正投手だった。「僕と杉本を開幕に使ってもらってうれしかったですよ。キャッチャーは中尾(孝義)、ピッチャーも小松(辰雄)がいたのにね」。

 しかし、結果は0-6の完敗。杉本は4回に吉村禎章外野手、5回に駒田徳広内野手にソロアーチを浴びるなど、6回途中でKOされた。大石氏も3打席目に代打・中尾を出されて退いた。「僕と杉本はオープン戦から調子がよかった。それで使われたと思うけど、期待に応えられなかった。自分でもホントに情けないなと思いましたよ。注目されて凄い緊張感もあったけど、簡単に負けてしまって……。怒られることはなかったですけどね」。

元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】
元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】

試合中に猛ゲキ「クソって思うこともありました」

 大石氏は鈴木孝政投手が先発した2戦目も「8番・捕手」で先発出場したが、2-4で落とした。3戦目は小松が先発して3安打完封の2-0。星野監督の記念すべき1勝目となった。その試合は中尾がスタメンで大石氏の出番はなし。チームが勝ったのは何よりだが、当然、複雑な気分にはなった。

 次カードの広島3連戦(4月14~16日、ナゴヤ球場)は2戦目と3戦目にスタメン。2戦目は敗れ、3戦目は3-3で同点の7回に落合の移籍1号となる3ランが飛び出して勝ったが、大石氏は6回に代打を出されて交代していた。そんなスタートだったが、懸命に星野野球に食らいついた。闘将も大石氏のリードを高く評価。さらに大事なところで起用していくようになる。

 とはいえ、星野監督はバッテリーには特に厳しいことでも有名だ。「ナゴヤ球場はベンチが近いし(試合中に)キャッチャーにもピッチャーにもガーッと言われるんでね。緊張感はありました。相手よりもそっちが気になったことも多々ありましたよ。クソって思うこともありましたけどね」。

 厳しい内角攻めは当たり前だ。「抜けたボールがデッドボールになるってことがあるじゃないですか。星野さんはそれでも、厳しいコースに投げてやり返せって、やられたらやり返せって常に言われていましたね」。大石氏も西武時代、打者の胸元ギリギリを攻めることもあった東尾修投手の“ケンカ投法”で鍛えられている。気迫で負けるわけにはいかなかった。

「乱闘の時の迫力。あれは星野さんにしかできないでしょうね。すごかったですね。味方の僕らもびっくりでしたよ」。それでも、気がつけば引き込まれてしまうのが闘将の魅力。そんな星野監督との出会いもまた、大石氏の野球人生には欠かせないものになっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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