「1000万円で売ってくれ」 “引退先延ばし”へ直談判…野村克也が羨んだ強肩

元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】
元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】

大石友好氏が西武に入団した1980年、野村克也氏の現役最終年だった

 強肩捕手で知られた大石友好氏は1980年の西武でのプロ1年目から1軍で活躍した。当時のライオンズは実績ある野手揃い。ルーキー捕手はそのなかでの奮闘だった。もちろん、そんな先輩たちとの思い出も数多くある。同じポジションの大ベテランで尊敬する野村克也氏との“風呂場談義”。元捕手の4番打者・田淵幸一氏との“屈辱エピソード”。いろんなことがあった当時を振り返ってもらった。

 大石氏が77試合に出場したプロ1年目のオフ、1980年11月15日に野村氏は引退会見を行った。当時45歳。南海、ロッテ、西武と3球団27年間の現役生活にピリオドを打った。翌11月16日の引退セレモニーではキャッチャーボックスに野村氏が入り、西武の選手がひとりずつマウンド上のマイクで送別の言葉を贈った後に投げ込むボールを受け取る“儀式”も行われた。

「野村さんはまだまだ野球をやりたかったんだと思います。晴れ晴れとした引退ではなかった。セレモニーとか悔しそうでしたから。僕は1年しか一緒にできませんでしたが、それを感じました」と大石氏は言う。「僕のスローイングを見て『お前の肩を1000万円で売ってくれないか。その肩が欲しい。肩があればまだ5年はできる』ってよく言われました。僕はそう言ってくれて、うれしかったですけどね」とまた懐かしそうに話した。

 野村氏とは西武球場の風呂場でもよく一緒になったという。「僕と蓬莱(昭彦外野手)のルーキー2人が風呂は一番最後に入るんですけど、野村さんもゆっくりされているので、ちょうど一緒の時間になったりしたんですよ。風呂につかりながら、その日の試合の反省とか、あそこはあのボールを使った方がよかったなとか、そういう話をしてもらいました。僕のことで気になったこと、作戦面とかちょっとしたこともね。それもいい思い出です」。

2年目に最初で最後の球宴出場…打席機会はなかった

 プロ2年目の1981年、大石氏は開幕からレギュラー捕手の座をつかみ、オールスターゲームへの初出場も決まった。その時に先輩・田淵氏に言われたことも「よく覚えている」と笑いながら話す。「バットとか荷物を用意していたら『お前はバットはいらないぞ』ってね」。看板は守備。打撃は売りではない大石氏に田淵氏は冗談口調だったが「僕は『そんなことはないですよ、(オールスターで)打席に立ちますよ』って言い返したんですけどね……」。

 結果はまさかの打席なし。当時のオールスターゲームは3試合行われていたが、いずれも試合途中から守備に就いただけで、田淵氏の“予言”通り打席に立つことはなかった。「冗談話が当たっちゃったんですよね。本当にバットはいりませんでした」。大石氏の球宴出場はこの時だけ。今思えば無念の結果にもなったが、田淵氏との印象深いエピソードは、それだけではない。

「これも1981年だったかなぁ。平和台球場の試合、2死満塁で僕が打席に入った時ですよ。サードランナーが田淵さん。僕は打つ気満々でいたんですが、1球目にホームスチールでアウトですよ」。まさにびっくりのシーン。大石氏は笑いながら話を続けた。「田淵さんに『僕は打とうとしていたんですよ』と言ったら『お前が打つ確率よりも俺のホームスチールの確率の方が高い』って。まぁ、僕は2割打つか、打たないかのバッターだったから何も言えませんでした」。

 試合の大勢が決まっていた状況でのことながら“屈辱的事態”でもあったが、大石氏は「それも思い出ですよ」と話す。それだけチームに溶け込んでいたからだし、野村氏や田淵氏ら先輩たちにもかわいがられていた証しでもあるだろう。「西武というチームがとても好きでした」。入った球団にも恵まれた。今も大石氏はそう思っている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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