新聞で知ったトレードに愕然 裏切られた「必要だから」…泣きながら受けたエースの投球

元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】
元西武、中日の大石友好氏【写真:山口真司】

大石友好氏は1985年春季キャンプ直前に中日へ移籍

 西武、中日で捕手として活躍した大石友好氏にとって、1985年1月24日は“運命の日”になった。西武・杉本正投手、大石氏と中日・田尾安志外野手の2対1の交換トレードがスポーツ紙のスクープ報道により、明らかになったのだ。「僕も新聞を見て知りました。西武が好きだったし、つらかったです」。その日、大石氏は所沢のブルペンで尊敬する先輩・東尾修投手のボールを泣きながら受けた。もうこれも最後。そう思ったら、こらえきれなかった。涙が止まらなかった。

 キャンプイン間近の時期にまさかのトレードだった。「あの日は朝6時半頃に東尾さんから電話があったんです。『お前、寝ている場合じゃないぞ、新聞を見てみろ』ってね。本当にびっくりしました」。実はその前日、自主トレ休みの日に大石氏は杉本ら数人の選手とゴルフをしていたという。「そのゴルフが終わった後に、杉本が『僕、近々トレードがあると思います』って言っていたんですよ。どこに行くとは言っていませんでしたけどね」。

 それを聞いて大石氏は「『えーっ、そうなのか。もしそれが決まったら、これが送別ゴルフになるな』って杉本に言ったんです」と言う。「そしたら、僕も一緒にトレードって新聞に出ているじゃないですか。そりゃあ驚きますよ。練習に行って球団の人に聞いたら『トレードは決まったから』って言われるし……」。1984年シーズンで大石氏は13試合の出場にとどまっていた。若手の伊東勤捕手の成長もあって、微妙な立場にはなっていたが、トレードはないと思っていた。

「前の年(1984年)にトレードの噂がチラホラ出ていたので、契約の時に『そういう話を聞くんですけど、どうなんですか』って確認したんですよ。その時は『お前は西武でまだまだやってもらわないと困る。伊東が出ようが、しっかり守れるキャッチャーは必要だから』と言われたんですけどね。まぁ、でもこれがプロ野球ですよね。中日が田尾を出すとは思ってなかったから、急に決まったんじゃないですかねぇ……」

エース東尾修と最後のブルペン「泣きながら受けました」

 河合楽器から1979年のドラフト3位で西武に入団した。わずか5シーズンの在籍となったが、プロ1年目から5年連続で開幕スタメンマスクをかぶったし、2度の日本一も経験した。1982年の中日との日本シリーズでは最後、東尾-大石のバッテリーで日本一を決めた。「西武が好きだった。愛着があったので、球団を離れるのはつらかったです。チームメートともね」。とりわけお世話になった東尾氏との別れはどうしようもなく寂しくてたまらなかった。

「トレードが分かった日も練習はしたんですよ。ブルペンで東尾さんの球を受けました。呼ぶとか呼ばれるとかじゃなくて、自然とそうなっていました。まだ、その時期ですから立ち投げですけどね。あの時はホント、つらかったですね。これで東尾さんの球を受けるのは最後やなって思ったらもう……。泣きながら受けました。東尾さんからは『頑張れよ』って……」。あの日のことがよみがえったのだろう。大石氏はそう言いながら目を潤ませた。

「杉本と2人、車で一緒に東名(高速道路)を走って名古屋に行きました。中日の人たちは僕たちを温かく迎えてくれました。記者会見が終わったら球団の人に『ピッチャーとキャッチャーは今、沖縄で自主トレをやっているから、すぐ行ってくれ』って言われました。それに『ゴルフバッグを忘れるな』ってね。自由な雰囲気にはびっくりしました。今まで管理野球で私生活も決められていたんで180度変わった感じでしたね」。

 恩人であり、師匠でもある東尾氏との涙の別れを経てのプロ6年目での新天地。あまりにもつらすぎるトレードだったが、懸命に気持ちを切り替えた。「まさか西武を出されるとは」と嘆くのをやめて、中日に請われての移籍と前向きにとらえた。背番号は西武時代の「9」よりひとつ若い「8」。東尾氏から学んだことなど、西武で得たことを財産にして、大石氏はドラゴンズの一員になっていった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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