「なめているのか」グラウンドでコーチと“大喧嘩” 代打も拒否…覚悟したトレード

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】
元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

1982年4月22日の巨人戦開始前、田尾氏は黒江透修コーチと“衝突”

 元中日外野手の田尾安志氏(評論家)はプロ7年目の1982年にリーグ優勝を経験した。129試合に出場してリーグ1位の174安打、同2位の打率.350をマークするなど大活躍だったが、実は、このシーズン序盤に「クビかトレードを覚悟した」という。4月22日の巨人戦(平和台)開始前の練習中に、黒江透修打撃兼走塁コーチと口論。「もうゲームに出さないぞ!」と言われて「もう出さんといてください!」と言い切ってしまったのだ。

 この年の田尾氏は開幕から主に「1番・右翼」で起用された。4月21日終了時点で打率.304。まずまずのスタートを切っていたが、“事件”が起きた4月22日は「フリー打撃の順番が下の方だったので、今日はスタメンではないんだなってカチンときていたんです。案の定、打ち始めて、そんなに時間がたたないうちに『あと3本』って言われたので、3つともバントして上がろうとしたら、黒江さんに『何だ今の態度は。お前、野球をなめているのか』って言われたんです」。

 田尾氏は「なめていません。一生懸命やっています」と言い返したという。「そしたら黒江さんは『お前、そういう態度をとるんだったら、もうゲームに出さないぞ!』って。僕は『わかりました。もう、とことん出さんといてください!』って言ったんです」。売り言葉に買い言葉。「これでもう本当に出さないだろうな。もしかしたらクビにするかもしれんな、普通に考えてもトレードだろうな。そこまで考えましたね」と言う。

「練習も自分でやめて、ベンチの後ろの方の通路を越えたところで、スパイクも運動靴に履き替えて、ヘルメットも全部しまって。もうゲームに出ないから、ベンチに座っていたんです。それでゲームが始まって、ある程度、進んだ時に近藤(貞雄)監督はそういういきさつを知っていたのか、知らなかったのかはわからないですけど、『代打田尾』って言ったんですよ」。出るわけがないと思っていたところで告げられた代打。すぐに気持ちは切り替えられなかった。

代打出場を最初は固辞も…「頼む、ここは出てくれ」の言葉で翻意

「黒江さんが来て『田尾いくぞ!』っていうから『いや、僕はもう出ませんよ。とことん出さないって言ったじゃないですか。僕は出ません』と伝えました。『監督が言っているから、出なければいけないだろ』と言われても『僕は出ません』って言いました。すると最後は『頼む、ここは出てくれ』って。それで後ろにヘルメットを取りに行って、スパイクに履き替えて、打席に向かいました」。巨人はエースの江川卓投手が投げていた。

「いつもだったら、絶対打てない江川の高めの真っ直ぐをカーンってセンター前に打ったんですよ。やっぱりガーッと何か出ていたんでしょうね。打てるもんだなって思いました。あれは印象に残っていますね」。ヒットを打ったこともあってか、翌日以降はいつも通りに戻ったという。あの時、代打が告げられなかったら、江川からヒットを打っていなかったら、どうなっていたかはわからないが、ずっと使われなかったら、この年の優勝メンバーには入っていなかった。

 田尾氏は「黒江さんとは、今でも普通にお話できますけどね。まぁ、あそこまで言う選手ってなかなかいないでしょうね。後になって、扱いにくい選手だっただろうなって、自分で反省するところもいっぱいあるんですけど、あれでホント、よくやってこれたなって思いますね」と苦笑する。さらには、こんなことも付け加えた。

「中学の時に大阪球場でドジャース対巨人・南海連合軍の試合があって、僕は(ドジャースのウォルター・)オルストン監督に記念品を渡す役だったんですけど、その時、巨人の選手で唯一サインをしてくれたのが黒江さんだったんです。僕の勉強机の前には、黒江さんの色紙がずっと置いてあったんですよ。その人と将来、ケンカするとは思わなかったですね」

 1982年の田尾氏は4・22以降、首脳陣に使いたいと思わせる結果を出し続けた。ヒットを量産して打率を.350にまでアップさせたが、それも4月の“反発パワー”が引き金になったのかもしれない。そしてシーズン最後には大洋・長崎啓二外野手と首位打者を激しく争うことにもなる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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