阪神・村山監督が「僕をクビにしようと思っている」 “勝ちたい発言”で冷遇…田尾安志が抱いた違和感

元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】
元中日・田尾安志氏【写真:山口真司】

田尾安志氏は1987年に阪神移籍…最下位に終わり吉田監督は解任された

 野球評論家の田尾安志氏は現役時代、中日、西武、阪神の3球団を経験した。阪神にはプロ12年目の1987年シーズンから在籍し、吉田義男監督、村山実監督、中村勝広監督の下でプレーした。特筆すべきは1988年と1989年の2シーズンでサヨナラ本塁打を計4発、放っていることだ。「僕がサヨナラホームランを打ったのはその時だけ。村山さんが監督の時だけなんですよ。村山さんへのエネルギーで打てました」と話した。

 1986年オフ、西武での2シーズンを終えたところで「翌年、僕は使われないだろう」と判断して、西武・根本陸夫管理部長に「トレードに出してもらえませんか」と頼んで、決まった阪神移籍。「やっぱり僕は大阪出身なので、結果的に地元でやれるというのはよかったかもしれないなという気持ちになりましたね」と田尾氏は振り返ったが、1987年は104試合出場で規定打席に届かず打率.221、6本塁打、12打点の自己ワースト成績に終わった。

「阪神1年目が一番悪かったんですよねぇ……。期待されて入ったのに結果を残せなくて、吉田さんに悪かったなぁっていう気持ちがすごくありました」。4月10日の開幕・ヤクルト戦(甲子園)は「2番・中堅」で4打数1安打。2戦目(4月11日)にはヤクルト・尾花高夫投手から移籍1号ソロを放ち、3戦目(4月12日)も2安打。4戦目(4月14日の大洋戦、横浜)は4安打と好スタートを切ったが、5月頃から調子を落とし、夏場以降はスタメン落ちも増えた。

「あまり打ったことのない2番というところで、ちょっと戸惑ったというのはひとつありました。だいたい1番か3番が多かったのでね。何かチームバッティングをしなきゃいけないなって、自分で考えすぎたんですよね……」。この年の阪神は最下位に沈み、吉田監督は解任された。なおさら田尾氏はチームに貢献できなかったことに責任を感じたのだろう。「初めて監督に悪かったなぁと思いながら、終わった1年でした」と繰り返した。

村山監督に抱いた違和感…“無礼講の席”の一言で始まった冷遇

 吉田氏に代わって、阪神の新監督には最多勝2回、最優秀防御率3回、沢村賞にも3回輝くなど「2代目ミスタータイガース」と呼ばれた村山実氏が就任した。しかし、田尾氏は新指揮官のファン感謝デーでの言葉にいきなり違和感を抱いたという。「村山さんは“チームは過渡期なので、若いのに変わる時期なので、ちょっと我慢してください”というような挨拶をしたんです。これは監督が言うような挨拶じゃないなと思いながら聞いていました」。

 田尾氏はこう説明する。「やっぱり、駄目でも優勝を目指して頑張りますというのが監督じゃないかなって僕の中ではそういう気持ちがあったんです。何か最初から逃げ道を作っているのはよくないなって思っていました。僕らの頃は優勝か、そうじゃないかの2択しかなかったので、2位も5位も一緒という感覚でしたからね」。迎えた1988年、村山監督はオープン戦から和田豊内野手、大野久外野手、中野佐資外野手の「少年隊」ら若手を積極的に起用した。

「案の定、そういう方向に行ったんでね、違和感をずーっと持っていたんですよ」と田尾氏は話す。苦戦が続いたオープン戦終盤、村山監督は野手全員を集めた。「今日は無礼講で思ったことを言ってくれと言われたんです」。掛布雅之内野手、柏原純一内野手に続いて「『田尾、何かないか』って3番目に聞かれたので『勝つ野球をしてほしい』って話をしました」。その瞬間、誰もがピクッとなったそうだ。

「僕がそう言ったら、みんなびっくりしていましたよ。真弓(明信)なんか今でも言いますからね。『あの時は言ったなぁ』ってね。で、そこからちょっと冷遇され出すパターンです」。田尾氏はプロ13年目の1988年、開幕戦から代打要員だった。シーズン初スタメンは5月13日の広島戦(甲子園)までなかったし、その5月もスタメンは3試合だけ。「だからね、それだったら、聞かないでほしい。自分はこういう野球をするから付いてきてくれ、でいいですよね」。

 さらに続けた。「たぶん野球界だけじゃないと思いますけど、やっぱり自分に同調してくれる人がかわいい。そういうものだと思います。でも僕は違う意見を言うことはすごく大事なことで、気がつかないことに気がつくきっかけになると思う。僕が(楽天で)監督をしていた時は『意見を言ってください。みんなでいい方向を見つけよう』と言って、実際に違う意見を言ってくれる人を大事にしようとしたんですよ」。

2年間でサヨナラ弾4発「村山さんへのエネルギーで打てました」

 1988年8月7日の中日戦(ナゴヤ球場)で田尾氏は代打で三振に倒れ、試合後にコーチから2軍行きを通達された。「僕はプロ1年目に(調整のために)自分で2軍に行かせてくれって言って以来、2軍は1回も経験していなかったんですけど、この時は2軍に行かされたんですよね」。しかし、これにめげることはなかった。逆に奮い立った。

「村山さんはたぶん僕をクビにしようと思っているんだろうなってところから、僕は村山さんが監督の間は絶対にユニホームを脱がないぞ、脱がされないぞって思いました。それが僕のエネルギーでした」。2軍では常に前向きに練習に取り組んだ。1軍が呼ばざるを得ないような状況をつくろうと必死になった。狙い通り、8月中には1軍に戻った。

 復帰2戦目の8月27日の広島戦(甲子園)では7回裏に代打で出場して、一塁の守備に就き、3打数3安打。6-6の10回裏には広島・津田恒実投手からサヨナラ満塁ホームランをかっ飛ばした。9月11日の巨人戦(甲子園)では0-1の9回2死一、二塁で、巨人・鹿取義隆投手から代打逆転サヨナラ3ラン。この年は6月28日の巨人戦(甲子園)でも3-3の延長10回裏に鹿取からサヨナラアーチを放っており、これでシーズン3本目のサヨナラ本塁打となった。

 見事に結果を出して、存在感を見せつけた。田尾氏は1989年にもサヨナラアーチを1本記録しており、この2年間で計4発。「僕のサヨナラホームランは、村山さんの時だけなんですよ。村山さんへのエネルギーで打てました。でも、それも村山さんが使ってくれたからですよね。あのままずっと2軍にいさせてもよかったわけですから。エネルギーをもらったし、感謝しています」。

 プロ13年目の1988年は80試合、140打数42安打の打率.300、4本塁打、21打点。14年目の1989年は84試合、252打数72安打の.286、5本塁打、27打点。阪神は6位、5位といずれの年も下位に低迷し、村山監督は1989年シーズン終了後に辞任したが、田尾氏にとっては、跳ね返されても、また跳ね返した印象深い2シーズンでもある。「反骨心はあったんですよね。いろんな意味で良くも悪くもそうなってしまいました」。まさに真骨頂だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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