不動のレギュラーがまさかの電撃移籍 7人の“大激戦”抜け出した大投手からの一発

中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】
中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

プロ7年目で初めて規定打席に到達した川又米利氏

 ついに1軍定着の扉をこじ開けた。元中日の川又米利氏(野球評論家)は、プロ7年目の1985年シーズンで初めて規定打席に到達した。122試合に出場し、打率.290、9本塁打、44打点。1年目の秋季練習で腰を痛めてから狂っていたバッティングが、ようやく復調した。その年の1月に中日・田尾安志外野手と西武・杉本正投手、大石友好捕手の1対2の電撃トレード。田尾氏が抜けてライトのポジションが空いたことも、川又氏には“追い風”になった。

 開幕当初、川又氏は代打要員だった。ライトは激戦区で、右打者の剣持貴寛氏、豊田誠佑氏、石井昭男氏、左打者の藤波行雄氏、藤王康晴氏、島田芳明氏らレギュラー候補は多かった。当時の監督は山内一弘氏で、川又氏は「当初、山内さんは藤王を使いたかったみたいだった」と振り返る。だが、藤王氏も伸び悩み、開幕戦のライトは剣持氏が起用された。

 そんな中から川又氏が抜け出したのは、4月28日の広島戦(ナゴヤ球場)での一発がきっかけだったという。2点を追う7回裏、剣持氏の代打で登場し、広島・北別府学投手から同点2ランをかっ飛ばした。「この年、何で行ける自信がついたのかはよくわからないけど、あの北別府さんからのホームランで元気を取り戻したような感じになったのは覚えている」。この一撃が山内監督にも評価され、5月からはスタメンも徐々に増えていった。

 打順は5番か6番が多かったが、シーズン中盤には谷沢健一内野手の怪我もあって、ライトだけでなくファーストでも使われるようになった。6月27日の阪神戦(ナゴヤ球場)では4番も務めるなど、まさに飛躍のシーズンに。「この年は本当に有意義だった。楽しかったとは言えないけど、やりがいがあった。(出場が)122試合ってことは8試合しか休んでないんだもんね。1年間でこんなに出たことがなかったし、レギュラーで出るのが大変というのも初めて感じた。使ってくれた山内さんにはすごい感謝の気持ちがあります」。

「あの時、北別府さんから打ってなかったら…」紙一重のプロ人生

 山内氏は、心身の状態を表すバイオリズムも活用する指揮官としても知られた。「キャンプの時は毎日、球場に行く前にミーティングがあって、やりましたよ、バイオリズム。『お前は今日、何々だから』とか言われて……。でも本当に優しい監督でした」。

 ただ、チーム成績は上がらなかった。山内監督は就任1年目の1984年こそ2位だったが、1985年は5位。1986年はシーズン前半から下位に低迷し、途中休養、高木守道氏が監督代行となった。「いろいろ教えてもらいました」という川又氏にしてみれば、恩返しできなかったのが悔やまれる部分ではあった。

 山内監督に見いだされた形で1軍に定着した川又氏は、「あの7年目(1985年)から僕の野球人生が変わったような感じでしたからね」としみじみと話す。そして「あの時、北別府さんから打ってなかったら、どうなっていただろうね」とも……。ライバルが多い中、努力、精進し、チャンスをつかんだが、そこにはいろいろな巡り合わせがあり、実際は紙一重だったと実感しているからだろう。

「山内さんもそうだけど、皆さん、個性のある監督さんたちだった。中(利夫)さんも近藤(貞雄)さんも熱かったしね。その後の方はもっと熱かったけど……」。川又氏の現役生活は、ここからが本番といってもいい。さらに忘れられない日々がてんこ盛りとなっていく。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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