悪夢の連敗でバスが「お通夜みたい」 空港から直行…”真夏の方針転換”に「勘弁して」

中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】
中日で活躍した川又米利氏【写真:山口真司】

中日は1982年、1988年に優勝も…川又米利氏はビールかけを経験できず

 野球評論家の川又米利氏は中日での19年間の現役生活では、祝勝会でのビールかけを経験していない。中日は1982年と1988年にリーグ優勝を成し遂げたが、1回目は優勝決定直前に2軍落ち、2回目は昭和天皇がご病気だったことでビールかけが自粛となった。歓喜のシャワーを思う存分、味わったのは引退後だ。1999年の中日優勝の際にインタビュアーとして参加し「星野(仙一)監督に引き込まれて……」。これも忘れられないという。

 1988年、中日はセ・リーグを制覇した。星野監督体制になって2年目。川又氏はプロ10年目だった。4月終了時は首位から8ゲーム差の最下位だったが、そこから徐々に盛り返した。7月1日の大洋戦(平塚)から7月7日の巨人戦(札幌)まで6連敗を喫したものの、それ以降の7月は12勝1敗の猛烈スパート。最後は独走優勝だった。

「札幌で巨人に負けて、6連敗になった時は球場からの帰りのバスが、ホント、お通夜みたいだった。シーンとなってね。延長戦になって(郭)源治さんが打たれてサヨナラ負けだったけど、試合が長引いて、本当はその日に名古屋に帰る予定が、飛行機に間に合わなくて泊りになってねぇ。次の日は空港から球場直行で、基本に戻ってランニングからって、べーランもやってねぇ。でも、そこから勝ちだしたんだよね」。

 札幌の夜に実施したコーチ会議で決まったのが、走ることからのやり直し。「7月だったし、暑かったのは覚えている。でも不思議だよね。そんな簡単に変わるのっていうくらい勝ったからねぇ。6連勝、ひとつ負けて、また6連勝だったもんね。信じられないよね。勝ち出すと“今日はいける、今日はいける”って雰囲気になっていた。ちょっとリードされても絶対ひっくり返すみたいな。面白いようにね。でもランニングはもう勘弁してって感じだったけどね」。

引退後の1999年、インタビュアーとして祝勝会に参加した

 10月7日。本拠地・ナゴヤ球場でのヤクルト戦で優勝は決まった。星野監督が胴上げされると同時にスタンドからファンがグラウンドになだれ込み、歓喜のVはあっという間に騒然としたムードになってしまったが、1982年の優勝決定直前に2軍落ちした川又氏にとっては、うれしい“初体験”。ビールかけは自粛だったが、祝勝会は行われ、喜びに浸った。「ビールは家に帰ってから、奥さんにかけてもらった。風呂場でね、やったーって」。

 祝勝会でのビールかけは、その後、またできるはず。そう思ってプレーを続けたが、結局、1997年に川又氏が引退するまで、中日は優勝できなかった。現役時代に夢はかなわなかったが、1999年に星野中日がリーグ制覇した時に経験できたという。その時はすでに野球評論家だったが、祝勝会にマイクを持って参加した。「お仕事で行って、ビールをかけてもらった。ユニホームじゃなかったけどね。目が痛かったねぇ……」。

 祝勝会は都内の宿舎のプールサイドで行われたが、星野監督はマイクを持った川又氏を見つけるや否や手招き。「監督に『ヨネ! こっちに来い』って引き込まれて、プールの中にドボーンって……」。星野監督にとって川又氏は現役時代からかわいがってきた後輩。ビールかけを味わっていないことも知っていた。その分も含めて思う存分、ということもあったのだろう。

 川又氏には2004年の中日2軍打撃コーチ時代に「ウエスタンで優勝して、ナゴヤ球場でビールかけをした」という思い出もあるが「やっぱり、現役の時に味わいたかったねぇ……」とポツリ。それでも引退後に星野監督らと盛り上がった“宴”は忘れられない出来事だ。「プールに落とされて、マイクを駄目にしたような記憶もありますけどね」。思い出しつつ、苦笑いも浮かべた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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