兼任コーチ要請を拒否して自由契約 妻は出産したばかり…年俸ダウンで選んだ阪神復帰

元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】
元阪神、中日の久慈照嘉氏【写真:山口真司】

久慈照嘉氏は2003年に阪神へ復帰…中日からの兼任コーチ要請を断った

 守備のスペシャリストとして名を馳せた久慈照嘉氏は2002年オフに中日を退団して、古巣の阪神に戻った。中日から守備コーチ兼任を打診されたが、あえて自由契約を希望しての復帰だった。阪神監督は中日時代にお世話になった星野仙一氏。その“縁”あってのことで、勝ちパターンの守備要員として活躍した1999年の星野中日優勝時と同じ仕事を任された。「午後9時に久慈」。2003年の星野阪神の歓喜の優勝にも貢献できた。

「戻ってこい。監督が中日の時とまた同じ仕事をやってくれといっているぞ」。2002年オフに阪神・島野育夫ヘッドコーチに誘われたこの言葉に久慈氏は奮い立った。中日からのコーチ兼任要請を断って自由契約を希望。迷うことなく星野阪神に飛び込んだ。「家族は僕に振り回されましたよね。中日に残った方が年俸も高かったし、生活のことを考えればそっちでしたから。うちの嫁も名古屋には骨を埋めるつもりで行っていましたからね」。

 それでも黙ってついてきてくれたことに久慈氏は感謝する。「僕の仕事に関しては、好きにして、応援する、みたいな感覚でいてくれたのでありがたかったですよ。長男が生まれたばかりでしたし、嫁さんは大変だったと思います」。それに応えるためにも野球で結果を出したい年でもあった。開幕こそ2軍スタートだったが、必ずチャンスが来ると信じて調整を続けた。

 1軍登録されたのは2003年5月27日。その日の横浜戦(甲子園)に途中からショートの守備についた。5月28日の横浜戦は代走からショートに入り、回って来た打席では中前打を放った。5月31日の巨人戦(東京ドーム)では先発の下柳剛投手への代打からの出番で3打数2安打。6月1日の巨人戦では途中からショート守備、打席では送りバントもきっちり決めた。

 6月5日の中日戦(甲子園)では「8番・遊撃」でスタメン出場。2回に先制の三塁打を放ち、6回にはレフトへ犠牲フライ。試合は2-1で阪神が勝った。1人で全打点の久慈氏は、1失点完投勝利の伊良部秀輝投手とともにお立ち台に上がった。「鮮明に覚えています。すごい温かい拍手をもらったことをね。スタンドから『戻ってきてくれてありがとう』という声が聞こえてきて、そりゃあもう、うれしかったですね」。

遊撃の守備固めで貢献…「午後9時に久慈」と呼ばれるようになった

 星野監督は“予告”通り、久慈氏を1999年の中日優勝時と同じように起用した。「中日の時は福留(孝介)の守備固めでしたけど、阪神では藤本(敦士)のケツふきをしましたよね」。7月20日の広島戦(甲子園)では途中から藤本に代わってショートを守り、延長11回にサヨナラ打も放った。「(広島の)永川(勝浩投手)からね。レフトオーバー。珍しくね」と笑みを浮かべた。

 久慈氏の守備固めによるチーム貢献は大で「午後9時に久慈」と呼ばれるようにもなった。「出ていく時間帯がだいたいそうだったんですけど、横断幕も出してくれて、ありがたいなと思いましたよ。8時半くらいに出ていくとスタンドから『ちょっと早いぞ』とか『まだ9時になってないぞ』って言われましたけどね」。それも立場が認知されてのこと。久慈氏には大きな励みにもなったわけだ。

 ちなみに久慈氏の愛称は2001年に登録名にもした「テル」だが、元中日、阪神の矢野燿大氏も現役時代、星野監督に「テル」と呼ばれていた。中日では久慈氏と矢野氏はトレードで入れ替わりだったが、阪神で同僚に。この「テル」問題はどうなったのか。「僕が阪神に行って“テル”って呼ばれた時、矢野さんと2人がハイって返事してしまうことがありました。そういう時は僕が“チビテル”って呼ばれていましたよ。小さい方のテルってことでね」。

 阪神の優勝で沸いた2003年。久慈氏は55試合に出場して、46打数14安打の打率.304の成績を残した。3勝4敗で敗れたダイエーとの日本シリーズは、メンバー入りしながら出番なしに終わったが「星野さんは阪神での総決算として藤本を使ったと思う」。このシリーズ限りで退任した闘将の考えも理解していた。何よりもタイガースに戻って正解だった。久慈氏は星野阪神の優勝メンバーに名を連ねたことを誇りに思っている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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