ドラ1指名の前年に「もうやめます」 退部届を握りしめ…自信を失った高2の夏

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

「体力が持たない」元広島の山崎隆造氏は崇徳高2年夏の大会後に退部届を提出

 1976年の第48回選抜高校野球大会で初出場初優勝を果たした崇徳(広島)の主将・山崎隆造氏(元広島、現野球評論家)は1年秋から主力選手だった。2年夏の広島大会は決勝で広島商に0-4で敗れたものの「1番・遊撃手」として活躍。主将になった2年秋は広島大会を制し、中国大会でもV。そして翌春の選抜と崇徳快進撃の立役者のひとりとなったが、決して順調な高校生活ではなかった。実は2年夏の大会終了後に退部届を出したという。

 惜しくも広島大会準優勝に終わった2年夏だが、山崎氏にとってショックだったのは準々決勝の広陵戦だった。0-3で迎えた9回裏に4点を奪って逆転サヨナラ勝ちした試合だったが「僕は試合途中に交代したんです。もう体力的に駄目で、今でいう熱中症みたいになって……。ベンチからも外れて球場の陰で倒れている間に、僕の代わりに出た先輩が打ってくれたりして勝ったんです」。大事な試合でのリタイア。これが、その後の行動への引き金になった。

 山崎氏は広島商に敗れた決勝戦に出場して3打数1安打だったが「もう体力が持たない」と自分で判断した。「大会が終わった後『体力に自信がないのでやめます』と退部届を出したんです。監督が受理してくれなかったんですけど、僕はかたくなに『やめます』と言って練習に行かなかったし、夏の遠征も当然行かなかった。普通なら翌年は3年になるんだし、今度こそって思うはずじゃないですか、だけど、あの時は本当に体力が駄目だと思ったんです」。

 本気だった。真剣にやめるつもりだった。「汗かきで、夏に弱くて、食も駄目で大会中、僕がやせるもんだから、監督の家に泊めさせられていた。自分の家に帰ったら食べないだろうから、ここでちゃんと食べろってね。そこまで管理されていた夏だったのに体力が続かなかったのでね」。それが翻意したのは、仲間たちに説得されたからだった。「同級生たちが『やめるな』『やめるな』と言って、僕の家まで来てくれたんですよ」。

同級生の説得もあり翻意…翌年は主将として選抜優勝に貢献

 最初はそれでもクビをタテに振ることはなかったが、同級生たちは何度も何度も説得に来たという。「無理無理無理って言っていたんですけどね。まぁ戻ったというか、戻されたというか……」と山崎氏は笑みを浮かべながら懐かしそうに話した。そしてこう続けた。「もし、あの時、野球を辞めていたら、甲子園にも行けなかったし、僕の人生はどうなっていたか。きっと全く別の人生ですよね」と……。

 一度は退部届まで出した山崎氏が、主将も務めて、翌春の選抜大会では全国制覇も成し遂げた。まさに紙一重の出来事だったとはいえるだろう。「キャプテンの仕事は全くしていませんけどね。もうこんなのまとまるわけがないというメンバーでしたから。やりたい放題の個性派揃い。練習をボイコットして脱走したヤツもいたし……」というが、そんな仲間たちの存在があったからこそ野球を続けられた。

「甲子園は目指していたけど、プロは目指していなかった。それが甲子園で優勝したことが転機にもなるわけですからねぇ……。あの時、辞めなくて本当によかったですよ。説得してくれた仲間たちに感謝ですよね」と山崎氏はしみじみ話す。超高校級と言われたエース・黒田真二氏(元ヤクルト)は2020年9月に、早大監督を務めるなどアマチュア野球界の発展にも尽力した捕手の応武篤良氏は2022年9月にいずれも病気のため亡くなったが、崇徳同級生たちの絆は永遠だ。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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