ドラ1入団もキャンプで挫折「鼻であしらわれた」 レジェンドにビビって起きた“異変”

広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】
広島で活躍した山崎隆造氏【写真:山口真司】

山崎隆造氏は古葉監督の進言でスイッチヒッターに挑戦

 プロの壁にブチ当たった。ドラフト1位で崇徳から広島入りした山崎隆造氏(野球評論家)は1年目の1977年、春季キャンプこそ1軍に帯同したが、終盤に故障もあって2軍落ちとなった。「打つことも守ることもレベルが違った。鼻であしらわれている感じで居場所もなかった。技術だけでなく精神的にも追い込まれて何もできないキャンプだった」。苦しい日々が続いた中、転機となったのは古葉竹識監督の進言によるスイッチヒッター挑戦だった。

「とんでもないところに入った」。入団当初の山崎氏は即座にそう思ったという。目の前に山本浩二氏や衣笠祥雄氏らがいるだけで緊張した。「(1975年に)優勝したすごい人たちだし、18歳の小僧からしたら、みんなおっさんに見えた。昔の30歳は今の30歳とは絶対違いますよ。もう貫禄がありましたから。そんな方々にこちらから声をかけるなんてとんでもない。1年目のキャンプでは声をかけられた記憶もないです」。

 体にも異変が起きた。「1軍帯同の緊張感のせいか、バランスが崩れたのか、よくわからないけど痛めたことのない足首近くの腱鞘炎になった。それで2軍に行かされた」。怪我で離脱した以上に、力の差に愕然とした。結局1年目は2軍暮らしで、1軍初出場は2年目の1978年8月1日の中日戦(広島)。代走で出て牽制アウトになった。次の熊本でのヤクルト戦まで1軍にいたが、その後は出場機会がなく、2軍行きを命じられて2年目もそれで終わった。

「代走で出た時、絶対走ったろう、盗塁を決めてアピールしようと思った。それは自分をほめてやりたい。中日の早川(実)投手のクイック牽制にまんまと引っかかってアウトになりましたけどね」。その積極性は大きな進歩だったが、さらにプラスになったのがスイッチヒッターへの挑戦だ。「左打ちは全くしたことがなかったけど、言われた時は2つ返事しかなかった。断る理由がなかった。もう右では到底無理と思っていたし、何でもやったれという感じでした」。

山本一義氏&大下剛史氏に鍛え上げられレベルアップ

 山本一義2軍打撃コーチに徹底的にしごかれた。「右でも左でも毎日1000振れと言われた。体力がなかったんで、さすがにそれはできませんでしたけど、しんどかったです」。先輩の高橋慶彦内野手もプロでスイッチヒッターになり、その裏に猛烈な練習量があったのは知っていた。「高橋さんには及ばなかったけど、僕なりにはかなり振りましたよ。とりあえず左をかっこよくしなければいけないので、振るのは左の方が多かった。上達は早かったと思います」。

 秋には米フロリダ州での教育リーグにも参加。「僕の記憶では実際に人が投げる球を初めて左で打ったのが教育リーグ。外国人が相手だった。それまで左打ちはティーだけをとにかくやらされた感じ。形をつくって、つくって(スイッチヒッター)デビューはアメリカだったと思う」。最初は怖かったという。「右と左では景色が違う。デッドボールになりそうなボールのよけ方もわからなかったですからね」。それも場数をこなしてクリアしていった。

 打撃だけではない。守備は大下剛史2軍守備走塁コーチに鍛えられた。「フロリダの教育リーグで、僕らはパイレーツのキャンプ地宿舎に泊めてもらっていた。そのキャンプ地の4面あるグラウンドの1面を僕と大下さんが貸し切りで練習した。大下さんが投げたのを僕が捕って投げる。その繰り返し。ずっと腰を上げずにグラウンドをグルグル回ってヘロヘロでしたけど最高の思い出。大下さんは投げながらバックしていくんですが、あれもきつかったと思いますよ」。

 プロの壁に苦しんでいた山崎氏だが、山本コーチと大下コーチのおかげで打撃と守備は1軍レベルに成長していった。「お2人には感謝しかありません」。もう一段階、上の世界へ。スイッチヒッター挑戦をきっかけに、何とかやっていけそうな感覚をつかみ始めた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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