披露宴で背番号「18」伝達も…前任者同席で「僕は複雑」 “宝刀”会得で開けたプロ人生

阪神、オリックスでプレーした野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスでプレーした野田浩司氏【写真:山口真司】

1989年秋季キャンプ、臨時コーチの助言で進化したフォーク

 伝家の宝刀はメジャーコーチ仕込みだった。野球評論家の野田浩司氏は現役時代に阪神、オリックスで活躍した。代名詞はフォークボールで、1試合19奪三振の日本記録保持者でもあるが、その得意球が徐々に安定しはじめたのは、プロ2年目、1989年の秋季キャンプだった。球団が招いたデトロイト・タイガースのマフェット臨時コーチの指導によって変わった。「カウント球でも使えるようになってきた」と言う。

 プロ2年目の1989年は43登板で5勝4敗2セーブ、防御率3.35。1年目同様に先発とリリーフの両方で活躍した。この年のオフに村山実監督が辞任し、中村勝広氏が新監督となったが、野田氏にとってはこの時の秋季キャンプが飛躍への大きなきっかけになった。「(マフェット臨時コーチに)『フォークは上からかぶせるように投げなさい』と言われた。そうするとワンバンにもなるんですけど、逆にワンバンを投げなきゃいけなかったんですよ」。

 それまでは普通に挟んで押し出すように投げていたという。「僕が入った頃って、ブルペンでとんでもないワンバンを投げたら怒られた時代だったんですよ。どこ投げてんねんみたいな。でも、あのコーチに言われて、ああそうなんやという感じになってから良くなってきましたね。ワンバンを投げるようにというか、イメージを変えてね。ブルペンだけでなく、シャドーとかネットピッチングとかでもね」。

 その後、野田氏のフォークは進化していった。「コントロールが良くなったし、和田(豊)さん(当時内野手、現阪神2軍監督)には『カウント球でフォークが来たら打者は嫌。お前のフォークはカウント球でもいけるよ』って言われました。(捕手の)木戸(克彦)さんもそれをうまく引き出してくれましたしね」。スピード差、落とす位置は自在に操れるようになった。「思い切り腕を振るやつと、ちょっと腕の振りを緩めてストライクを投げにいくヤツとかね」。

 フォークでいつでもストライクを取れる自信もあった。「満塁で3ボール1ストライクでもフォークを投げていましたよ。ストライクのフォークをね」。投げながら、数をこなしながら、いつしか身についていったという。「野田氏=フォーク」のイメージはそうやって出来上がっていったわけだ。

3年目の1990年オフに結婚、披露宴で背番号18への変更が発表された

 もっとも、いきなり結果が出たわけではない。3年目の1990年は11勝12敗5セーブ、防御率4.90。「その年は最初、抑えだったんですけど、無茶苦茶打たれてリリーフをクビになって(7月中旬から)先発に回ったんですよ」。数字は残していた。先発転向前までに9勝5敗5セーブ。球宴にも監督推薦で選出された。「リリーフに失敗して同点にするから勝ちがついただけ。オールスターは肘に水がたまって辞退となったんですけどね」。

 野田氏のなかでフォークも含めて自身の成長を感じたのは、それより後だった。「3年目の途中に先発に回って、シーズンの最後の方に、自分の中でもしっくりきだしたんですよね。その延長で次の年に入った。4年目(1991年)は春先からかなりいい感じで、開幕は野田ってなりましたからね」。発奮材料もあった。3年目(1990年)のオフに社会人・九州産交時代から交際していた千代美さんと結婚。披露宴の球団幹部のスピーチでは背番号「18」への変更が発表された。

「僕は事前に聞いていました。エースナンバーだからうれしかったですよ。(披露宴も)おーって盛り上がりましたね。ただ(それまでの18番で)ダイエー(現ソフトバンク)にトレードとなった池田(親興)さんも出席してくれていたので、その時の僕は複雑な気持ちでしたけどね」。結婚して西宮市内に家も買った。メジャーコーチ仕込みのフォークに手応えも感じていたからこそだった。

 もちろん、この時は思ってもいなかった。虎の18番でいられるのが、わずか2シーズンだけになるなんて……。5年目(1992年)のオフにオリックスへトレードとなるなんて……。野球人生はわからないものだ。そして、野田氏のフォークはパ・リーグ移籍後に完全覚醒。三振の山を築くことになる。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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