「やる気がないなら辞めろ」 恩人と衝突した虎右腕…150球完投翌日のブルペン指令に反発

阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】

野田浩司氏は阪神で大石清氏の指導を受けた

 元阪神、オリックス投手で野球評論家の野田浩司氏にとって、自身の基礎を築いてくれた恩人は阪神時代の投手コーチだった大石清氏だ。「手取り足取り、教え込まれました」。決して関係が良好だったわけではない。「めちゃめちゃ熱心な方なんですけど、言い方などがきつくて……」。若かった野田氏は反発し、ギクシャクしたそうだが、この時期に大石氏に受けた指導がのちの活躍につながったのは間違いないという。

 大石氏は現役時代、広島と阪急で活躍した。広島時代の1960年から26勝13敗、27勝18敗、20勝18敗と3年連続20勝以上をマーク。プロ通算134勝の右腕で、1970年に引退後は敏腕指導者として阪急、近鉄、広島、日本ハム、阪神の5球団を渡り歩き、教え子は数多い。阪神には1988年から1994年まで投手コーチとして在籍。野田氏がプロ3年目(1990年)の時に阪神1軍投手コーチとなった。

「大石さんにはフォーム、投げ方を指導してもらいました。投げ込みましたよ。3年目の僕は最初、抑えだったんだけど、打たれてリリーフは無理となって先発になった。フォームをしっかりしないといけないってね。とにかく投げる。40何日間連続スローというのがあった。ちょうど数えていたんですよ。休みの日も投げるんでね」。当時は大石コーチの顔色を見ながらの練習にもなっていたそうだ。

「闘争心むきだし、ギラギラで来いって言われましたけど、抜いたボールも投げなきゃいけないんです。BPボールってバッティングピッチャーくらいのボール。70%くらいでアウトローに投げてストライク。これをやらなきゃいけなかった。それが投げられるのが一番いいバランスだし、そこに投げたらバッターは振らないし、みたいなね。体の使い方を覚えて、軽く投げる感覚を身につけないと難しいんですよ」

 グラウンド外も厳しかった。「タテジマを着ているから、ちやほやされているだけで、全然ひよっこやってよく言われました。大石さんはウチの親父と同い年なんで、親父みたいな感じ。大石さんからしたら、僕なんかホントひよっこですからね。門限もうるさかったです。宿舎に戻ったら『帰ってきたら俺の部屋に来い』と手紙が入っていて、怒られたりね」。そんな生活が、知らないうちにプラスになった。

ブルペン投球回避の希望も聞き入れられず「会話もしなくなった」

「3年目の終わりごろに自分でも良くなったと思えるようになって、4年目(1991年)は春先からいい感じでした」。4年目は開幕投手を務めた。4月6日の大洋戦(横浜)だった。「よく覚えてます。9回2死まで3-2で勝っていて、自分でも珍しくタイムリーを打って、正直、ヒーローインタビューが頭をよぎっていた。それが代打の二村(忠美)さん、社会人(九州産交)の先輩なんですけど、初球、真ん中にスーッと入って弾丸ライナーのホームランでした」。

 痛恨の被弾だった。「初めての開幕で、だいぶ気持ちが張り詰めていて9回2アウトまでいって、よっしゃ役目を果たしたと思った瞬間。天国から地獄でした。一番悔しいといっていいくらいの1球ですよ」。試合は延長に入り、2番手・仲田幸司投手が打たれてサヨナラ負けだった。次の登板(4月12日、ヤクルト戦、甲子園)は先発して6回5失点で敗戦投手。チームは開幕5連敗。野田氏にとっても最悪のスタートだったが、そこから巻き返した。

 4月14日のヤクルト戦(甲子園)には抑えで登板して1回無失点。連敗脱出に貢献するセーブをマークし、その後、先発に戻って、4月19日の中日戦(甲子園)で1失点完投勝利。5月24日の広島戦(西京極)ではプロ初完封勝利も挙げた。チームは2年連続最下位に終わったが、野田氏は32登板で8勝14敗1セーブ、防御率3.81。黒星こそ先行したものの212回2/3を投げ、2完封を含む10完投で「自信になった」という。

 しかし、この年の終盤に大石コーチとの関係は悪化した。野田氏は9月24日のヤクルト戦(甲子園)で150球、7安打3失点の完投で8勝目を挙げたが、大石コーチは投球内容が気に入らなかったようで、翌日もブルペン投球を命じた。肩が張っていたため野田氏は回避を希望したが、聞き入れてもらえず不満そうな顔をしたところ「やる気がないなら辞めろ」。これに野田氏はカチンとなった。「関係性がおかしくなってからはあまり会話もしなくなった」そうだ。

 当時は若さもあって引けなかったという。野田氏は「(2000年に)引退する時に大石さんに電話して『基礎を作ってもらって感謝しかないです』って話しました。『ごくろうさん』って言っていただきました」と明かす。でもプロ4年目の時にはそんな気持ちになれなかった。このギクシャクした関係は翌1992年も続くことになった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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