「何で代えるんや」続投志願も…首脳陣の“食い違い” 失意にまみれた不滅の記録

阪神、オリックスで活躍した野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスで活躍した野田浩司氏【写真:山口真司】

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災「野球やっていいのかと思った」

 がんばろうKOBE。1995年シーズン、仰木彬監督率いるオリックスはリーグ優勝を成し遂げた。1月17日に阪神・淡路大震災が発生。当時オリックス投手だった野田浩司氏(野球評論家)は「最初は野球なんかしている場合だろうかと思っていた」という。それが「勝って神戸のファンに喜んでもらおう」に変化しての快進撃。野田氏も4月21日のロッテ戦(千葉マリン)で1試合19奪三振の日本新記録を達成した。

 1995年1月17日午前5時46分。神戸市須磨区の自宅で寝ていた野田氏は「ドーンみたいな音と揺れで目が覚めた」と話す。「最初タテで、その後、横にガーンと揺れた。家の近くの空き地に飛行機でも落ちたのかと思った。家の中はグラスが割れたり、鏡が落ちたりとかしましたが、家族も怪我は大丈夫でした」。停電していたため、車のテレビでニュースを見たという。「高速道路が倒れている映像を見て驚きましたね」。

 いつもの光景が突然なくなり、ショックだった。余震も続き、不安ばかりが増大した。「とにかくどうしたらいいのかわかりませんでした」。近くに住んでいた後輩のオリックス・金田政彦投手が避難してきた。「マンションが怖いからって、夫婦で僕の家に来たんです。それで一晩過ごして、とりあえず、キャンプも近いし、練習もしなければいけないから熊本の実家に移動しようと決めた」。大分出身の金田氏と車2台で出発したという。

「明るくならないと道が崩落しているかわからない状態だったけど、何とか熊本に帰ることができた。球団の人にも連絡をとって『僕は今、こういう状態です。周りはどうですか、大丈夫ですか』と話をしたのを覚えています。その後、どこからでもいいから(キャンプ地の)宮古島に入ってくれたらOKと言われたんで熊本で自主トレをして僕は鹿児島から入りました」。だが、神戸などの被害状況を知れば知るほど、とてもつらい気持ちになった。

 そんな中で2月1日、宮古島キャンプがスタートした。「神戸の方に向かってみんなで黙とうから始まった。正直、最初の頃は今年オリックスと阪神は参加しないんじゃないのって思っていた。でも普通に進んでいって、ああ、やるんやって感じで……。ただ、本当に野球やっていて大丈夫なのかなとの思いはずっとありましたね」。キャンプを終え、神戸に戻った。「3月に三宮に行った時はびっくりしました。いろいろ倒壊していて様子が変わっていて……」。

 4月1日、本拠地グリーンスタジアム(GS)神戸でのロッテ戦で開幕した。野田氏は開幕2戦目の4月2日に先発し、勝ち負け関係なしの7回2/3、1失点投球だった。「GS神戸の近くには避難所ができていて、リュックを背負って試合を見に来るお客さんもたくさんおられて……」。がんばろうKOBEを呼びかけながら応援されている状況に野球への取り組み方も変わったという。「勝てばお客さんもどんどん増えるし、途中から絶対優勝という空気にもなりました」。

1試合19Kも9回に追いつかれて降板…山田久志コーチはバーで痛飲

 4月21日のロッテ戦で野田氏は日本新記録の19奪三振を記録した。その前の登板の西武戦(4月15日、GS神戸)で3回途中8失点でKOされており、同じ失敗は繰り返せないと誓ってのマウンドだった。千葉マリン特有の風も味方にして、伝家の宝刀・フォークをうまく使った。7回までに、自身も1994年8月12日の近鉄戦(GS神戸)でマークしたタイ記録の17奪三振に到達。そして8回にロッテ・平野謙外野手から新記録の18個目の三振を奪った。

 この時点で1-0。あとは勝利投手をつかむだけだったが、9回裏に追いつかれた。1死一塁でロッテ・平井光親外野手の打球はセンター前へ。オリックスのセンター・田口壮外野手が前に突っ込んでダイレクト捕球を試みたが捕れず。後ろに逸らしてしまい(記録は三塁打)、一塁走者が一気に同点のホームを踏んだ。野田氏はその後、得点を許さず、奪三振数を1つ加えて「19」にして、この回まででマウンドを降りた。

 試合は延長10回、オリックス2番手の平井正史投手が打たれてサヨナラ負け。大記録達成の日に野田氏は白星をつかめず、チームも負けの無念の結果だった。実は同点となって9回を投げ終えた後、すでに162球を投じていた野田氏は、降板を告げにきた山田久志投手コーチに「この試合、僕にください」と続投を志願。山田コーチは野田氏の気持ちを理解した上で、仰木監督に掛け合ってくれたが、却下されていた。

「山田さんには『俺の力不足や』って謝られましたけど、そこまでやってくれたのは本当にうれしかったですね。あとで聞いたんですけど、山田さんはホテルに帰って(投手コーチの)山口高志さんとバーの酒、全部持ってこいというくらい飲んだらしいです。『あの試合は荒れてなぁ。俺は投げさせたいのに、何で代えるんや。腹が立ったよ』って……」。

 野田氏はそう振り返って改めて山田氏に感謝したが、その日は続きの出来事もあった。試合後、野田氏は新記録を達成したことで取材などが長引き、ナインより遅れて選手宿舎に戻った。エレベーターで上がって扉が開くと、そこに正座した田口外野手がいた。「すみませんでした!」と9回の守備のことで頭を下げられたのだ。

「そんなんやめてくれよ、今までどれだけお前に助けられていると思っているんやって言いましたよ」。真面目な田口氏らしいエピソードだが、野田氏はこうも話す。「あれは田口だから突っ込めたと思います。足がありますからね。それにあれが(シングル)ヒットでも追いつかれていたんじゃないですかね。あの時の僕はけっこういっぱい、いっぱいでしたからね」。

佐々木朗の19Kは「僕の19三振とは完全に別物」

 2022年4月10日、ロッテ・佐々木朗希投手がZOZOマリンスタジアムでのオリックス戦で完全試合を達成するとともに、野田氏に並ぶ1試合19奪三振をマークした。105球での偉業だった。「正直、僕の記録は破られないんじゃないかと思っていました。三振を増やすと球数も増えますからね。球数を考える今の野球では難しいんじゃないかってね。でも、あのやり方があるとはねぇ」と野田氏はうなるばかりだ。

「僕の19三振とは完全に別物ですよ。僕の場合は運があった。野手がフライを3つ落としての記録だったんでね。イチローと藤井(康雄)さんはファウルフライ、本西(厚博)さんはフェアフライを風に流されて落とした。その3つ全部がアウトだったら19三振はできなかったんですよ。だから、佐々木の記録は本当にすごい。異次元なんですよ」。

 とはいえ、野田氏の19奪三振もまた「がんばろうKOBE」の象徴になった。1995年のオリックスは6月に首位となり、最後は2位に12ゲーム差をつけて優勝した。9月19日の西武戦(西武)で決めた。首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率と大活躍のイチロー外野手は2年連続でリーグMVPに輝いた。

 野田氏は「仰木さんの胴上げの時、涙が出ました。自分自身、初優勝ということもありましたし、震災もありましたからね」と言う。ヤクルトとの日本シリーズは1勝4敗に終わったが「シリーズは先発もリリーフもやってフル回転したし、優勝パレードとかもあって、知り合いや神戸の人から『おめでとう』より『ありがとう』がすごい多かったんですよね……」。決して忘れない。忘れられない1年だった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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