コンビニ新設、自腹の酒が「ナンボでも」 待遇が劇的改善…絶大だった“イチロー効果”

宮古島キャンプ中に開催された少年野球教室に参加したオリックス時代のイチロー氏(左)【写真:共同通信社】
宮古島キャンプ中に開催された少年野球教室に参加したオリックス時代のイチロー氏(左)【写真:共同通信社】

イチローがブレークした1994年に1試合17奪三振を達成した野田浩司氏

 野田浩司氏(野球評論家)が阪神からオリックスに移籍して2年目の1994年シーズン、仰木彬監督の下で開幕前に登録名を「鈴木」から「イチロー」に変更したプロ3年目の若武者が、大ブレークした。日本プロ野球初のシーズン200安打(最終的には210安打)を達成し、打率.385で首位打者。チームは2位だったが、リーグMVPにも輝いた。オリックスに誕生した大スター。その効果はグラウンド外でも絶大だった。

 オリックス2年目の野田氏は、いずれも先発で27試合に登板し、12勝11敗、防御率4.24。17勝をマークした移籍1年目より成績は落ちたものの、2完封を含む11完投と好調はキープ。シーズン奪三振は213で、こちらは前年の209を上回った。得意のフォークを駆使した奪三振ショーも野田氏の看板になり、1994年8月12日の近鉄戦(グリーンスタジアム神戸)では当時のプロ野球タイ記録となる1試合17奪三振もマークした。

「あの時、近鉄が13連勝していて、どこが止めるかって言われていたし、もう何が何でも勝たないといけないってなっていた。(2-2の)同点の8回裏に1点勝ち越してくれて、もう勝つことしか頭にはなかった。最後9回、三振3個とって勝って(投手コーチの)山田(久志)さんと握手する時に『記録やぞ』って言われて『えっ』ってなった。三振は結構取っているなとは思っていたけど、記録は知らなかったんですよ」

 野田氏は8、9回の6つのアウトをすべて三振。この2イニングで一気に記録までたどりついた。意識することもなかったわけだ。仰木体制1年目のこの年、オリックスは優勝争いも展開。最後は西武に突き放されたものの2位でフィニッシュした。その立役者にもなったのが、振り子打法の若きイチロー外野手だ。走攻守3拍子そろったハイレベルな技術でファンを魅了。あっという間に関西でも阪神に負けない人気をつかんだ。

「ホント、すごいバッターでしたよね」と野田氏は今でも舌を巻くばかりだが、グラウンド外での“イチロー効果”もありがたかったという。「(キャンプ地の)宮古島にはイチローが言ってコンビニができたし、携帯電話のアンテナも立ててもらいましたもんね。イチローが活躍してくれて、スポンサーがついて、おかげで飲みものもビールとかナンボでも置かれるようになったんですよ」。

阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】
阪神、オリックスでプレーした野球評論家の野田浩司氏【写真:山口真司】

引退年とメジャー移籍年が同じ…忘れられないイチローとの会話

 野田氏が阪神からオリックスに移籍した当初は、そうではなかった。「阪神だったらキャンプ中、ホテルTAMAI(タマイ、1軍の高知・安芸キャンプ宿舎)にナンボでも置いてあった。ビールはもちろんタダ。それこそヘネシーだって積んであったんですよ。だけど、オリックスでは全部お金が必要でした。飲んでもいいけど、自分のお金で払わないといけないよって言われて……」。

 チェックアウトの時に、飲み物代だけで「6万とか7万(円)とかになった」という。「飲み出すと僕より下の連中にも『飲むか』と言って飲むじゃないですか。そしたら小瓶とか5、6本は一瞬ですよ。その分も払いますからね」。それがイチロー氏のおかげで変わった。人気球団・阪神と同等の形にしてくれたのだ。

 野田氏は、ブレークしてからのイチロー氏と行動をともにすることはなかったそうだが「僕が現役をやめる年とイチローがオリックスで最後の年が(2000年で)ちょうど一緒だった。で、その年の納会が宝塚であって、その時にイチローとしゃべったんですよ」と懐かしそうに話した。「僕は『お前はメジャーに行っても絶対いけるやろ。天然芝の球場で内野安打も増えるやんか。お前の足やったら、転がったらほとんどセーフになるんじゃないの』って言ったんですよ」。

 その時、イチロー氏は「何言っているんですか。向こう(の選手)は無茶苦茶、肩が強いんですよ」と答えたそうだが、野田氏は「でも、あれは僕の方が正解だったでしょ。メジャー1年目のイチローは内野安打も多かったから」と笑みを浮かべた。それもまた思い出。もちろん、イチロー氏と同じユニホームを着て戦った日々もまた、野田氏にとって、大きな財産になっている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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