友達と遊んだ記憶なし「スーパー小学生でした」 年上を圧倒…無敵の少年時代

阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】
阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】

阪神一筋19年、関本賢太郎氏が振り返る少年時代…父との猛練習の日々

 内野全ポジションを守り、全打順を経験、スタメンでも代打でも守備固めでも「必死のパッチ」で結果を出したのが元阪神の関本賢太郎氏だ。天理高から1996年ドラフト2位で入団し、2015年に引退するまでタイガース一筋のプロ野球人生。ゲーム状況に応じて大技、小技なんでもありだった“職人”はスポーツニッポン新聞社での評論家活動など、現在も野球と深く関わり続けているが、その原点は父との猛練習にあった。

 投光器に照らされた中で、黙々とバットを振った。奈良県橿原市の自宅前での夜間ティー打撃。使い古しの靴下を丸めてカラーテープで留めたボールを無心に打ち込んだ。練習相手は父・幸雄さん。関本氏が小学校1年生になった時から本格的に始まったという。「自営業の父が仕事を終えて、夕方5時くらいからまずピッチングをやって、晩ご飯を食べてからランニング、ティー打撃、腹筋、背筋、ウエートトレ。それを毎日続けました」。

 野球との出会いはそれよりも前だった。「父がやっていたソフトボールについていって、隅っこでボールを打たせてもらったりしていました」。そんな“慣らし”を経て、小1で少年野球チームの金橋バファローズに入り、父との練習もスタートした。「父親は(奈良)御所工で選抜に出た高校球児で、僕をプロ野球選手にさせたかったんですが、野球をやれと言われたことはないんです。やるように仕向けられたんだと思います。きっと誘導がうまかったんだと思いますよ」。

 練習場も父が作ってくれたという。「家の前にネットつるして、投光器つけて。父は看板屋さんだったので、ものを作るのが得意なんですよ。ネットをつるす棒とかも作って、コンクリートでセメント固めてとかそんな感じだった。鉄アレイとかもコンクリートで作ったもの。それで筋トレみたいなのをしていました」。小1の頃からランニングもみっちり。「最初のうちは3キロくらいだったんですかね。40分くらいかけて走っていたと思います」と振り返った。

小4で4番・エース…6年生相手に市内大会優勝

 雨の日以外、休みなし。「でも少々の雨なら練習していたし、雨だ、ラッキーって思ったことがないんですよねぇ」と関本氏は笑う。毎日、父と練習するのが当たり前の生活で「小学校の時は放課後に友達と遊びに行った記憶がないですね」という。練習に付き合う父の情熱もまたハンパではなかった。「ランニングはね、行って来い、じゃないんですよ。父も自転車でついてくるんです。父の方が根気もありましたね。なかなか、あそこまではできないと思いますよ」。

 練習は嘘をつかない。「地域で僕より上手い子はいませんでしたからね」と関本氏は言い切る。金橋バファローズでは小4の時から小6の試合に出た。「4年生の時からエースで4番でした。6年生を相手に橿原市の大会で優勝したと思います。4年生の時は4年生以下の試合にも出たんですが、それはもう相手にならない。そんな感じでした」と話す。体格もよく「いつも一番後ろ。4年で152センチ、6年で168センチでした」。すべてで図抜けていた。

 打ってよし、投げてよし。「両翼何メートルとかの球場ではなくて、長方形でひたすら遠いというような球場で、向こう側でも試合をしていましたが、僕が打席に入ると、外野が果てしなく後ろに下がっていましたね」。小5も小6も橿原市の大会では優勝したそうで、それこそ無敵状態だった。「スーパー小学生でした」と関本氏は笑みをこぼしたが、それも父との猛烈な練習をずっと続けてきたから。野球選手としての礎を築いてくれた父の存在は何よりも大きかった。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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