「今まで振り遅れた経験がなかった」 プロ入りのきっかけも…衝撃だった斉藤和巳の高校時代

元阪神・関本賢太郎氏【写真:山口真司】
元阪神・関本賢太郎氏【写真:山口真司】

関本氏は天理で1年秋からレギュラー、斉藤和巳投手の剛球に衝撃を受けた

 衝撃的な出会いだった。元阪神内野手の関本賢太郎氏は1994年の天理高1年秋からレギュラーの座をつかんだ。甲子園にはなかなか行けなかったが、2年夏前の練習試合で、のちにダイエー・ソフトバンクの大エースとなる南京都高の斉藤和巳投手から2本の二塁打を放ったことで一躍、プロ注目選手になった。プロ野球選手になるのが最優先だったことを考えれば、いい流れだったが、現実は振り遅れの二塁打。レベルの差も痛感したという。

 関本氏が1年秋の天理は奈良大会準決勝で智弁学園に5-6で敗れた「レギュラーでした。ショートがメインだったと思います」。中学時代はエースでもあったが「1年上にピッチャーがたくさんいたので、やる必要がなくて、自然とバッターに専念という感じでした。ピッチャーはピッチャー専念の練習メニューだったので、バッターと併用という二刀流という感じのメニューはなかったんです。だから2年の時はピッチャーの練習はほぼしていなかったんですよね」。

 2年春は奈良大会にも近畿大会にも優勝。夏に向けて天理ナインが勢いづく中、斉藤和巳投手を擁する南京都と練習試合で対戦した。「2年の6月くらいだったと思います。150キロを投げるピッチャーですから12球団のスカウトが来ていました」。関本氏にとっては願ったりかなったりのプロへのアピールチャンス到来だ。結果は2打席連続二塁打。「おかげでプロ注目になれました。斉藤さんを見に来たスカウトの目に留まったんです」。

 しかし、関本氏にとっては苦笑いの結果でもあった。「150キロを相手にレフトスタンドにホームランを狙いに行ったんですけど、ライト線に弾丸ライナーが飛んでいったんです。めっちゃいい当たりだったんですけど、レフトに打ったつもりが振り遅れて……。2打席とも同じような内容でした。すごい球だと思いました。それまでの人生で振り遅れた経験がなかったんですよ。常にホームラン狙いでホームランにならなくても、それなりの打球を飛ばしていましたから」。

 強烈すぎた。斉藤投手はその年(1995年)のドラフト会議でダイエーに1位指名。「ドラ1の球を見ちゃったんで、それ以来、あの球をどうやって打ったらいいんだろうって、ずっと考えながら、やっていましたよ」。自分よりすごいと思える選手が出てくれば、出てくるほど燃えるタイプ。プロに行くには斉藤レベルの投手を打たなければいけないとの思いで、さらに練習に励んだ。だが、2年夏も甲子園には行けなかった。

春季大会近畿王者が夏は初戦で敗退…「休み明けで体がフワフワした」

 まさかの負けだった。天理にとって初戦の奈良大会2回戦で高田に1-2で敗れた。春の近畿大会王者があっけなく散った。「原因はいろいろあるんでしょうけど、あの試合は1度、雨で順延になったんです。当時の天理は休みがなかったので、雨で流れた日が休みになったんですよね。それで次の日を迎えたら、休み明けの体を経験したことがなくてフワフワして、みんな体が動かない感じでした。僕もノーヒットだったと思います」。

 もちろん負けるとは思っていなかった。「休みと言われたから素直に休んだけど、その日にもっと動いとけばよかったなとか、みんな休み慣れしていなかったというか、休みの過ごし方を知らなかったというか……」と反省するしかなかった。ただし、ショックというほどではなく「僕はまだ高校野球が終わったわけではなかったので、負けたかってくらいだった」とも言う。「ベクトルがプロ野球選手になるためにはどうするかだったのでね」。

 2年秋は奈良大会準々決勝で郡山に6-10で敗れて終わった。関本氏は先発したが、郡山打線につかまった。「あの時は夏の大会が終わってから同級生が不祥事を起こして、練習が1か月半くらい停止になったんです。秋の大会の1週間前くらいに練習解禁されて、選手のポテンシャルだけで何とか勝ち進みましたけど、郡山高校レベルでは無理でした」。これで選抜がアウトになり、甲子園のチャンスは3年夏だけになった。

 プロになるのが目標でも「甲子園に出ていないのは、さすがにやばいなと思いましたね」。2年秋から投手も務めていたが、最後の夏に向けて打者に専念することに決めた。このままでは終われない。プロ野球選手になるためにも甲子園に出てアピールしなければいけない。関本氏は気合を入れ直した。それこそ、初めて甲子園を意識した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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