激高した岡田監督…あわや没収試合の大騒動 「ずっと引っかかっている」自己判断の送球

阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】
阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】

阪神と中日がV争いを繰り広げた2005年、直接対決で大騒動

 忘れられない試合だ。2005年9月7日の中日戦(ナゴヤドーム)で阪神・岡田彰布監督は審判の本塁セーフ判定に不満を爆発させて、ナインをベンチに引き揚げさせた。あわや没収試合になりかけたが、その原因になった本塁送球をしたのが二塁を守っていた元阪神内野手の関本賢太郎氏だ。まだビデオ判定がない時代。判定が覆ることはなかったものの「あのプレーはずっと引っかかっている」と振り返った。

 2004年シーズンから岡田監督の阪神第1期政権がスタートした。関本氏はプロ8年目。ホームランバッターになる夢を捨てて、バットを短く持つスタイルで勝負し始めた年だ。「それとともに右打ちできる人がいないとか、バントを得意にしている人がいないとか、いろんなポジションを守れる人もいないなとか、そういうところに目を向けた時に全部できる人になれば、1軍ベンチに居続けられるのではないか、全部身につけようって思いました」。

 打順も何番でも対応できるようにしようと考えた。とにかく試合に出ること。そのための練習をみっちり行った。2004年はシーズン後半から2番起用が増えた。「2番はゲームチェンジャーの要素が強いじゃないですか、一打で試合展開をガラッと変えられるというか、そういうところが面白かったですね」。赤星憲広外野手との1、2番コンビは「楽しかったし、やりがいがあった」という。

「全部赤星さんのおかげですけどね。赤星さんが一塁にいる時こそ2番の仕事。相手バッテリーがランナーにもバッターにも神経を使っているな、というのが実感できる時ですよね。後ろにクリーンアップが控えているのに神経を使っているなと感じた時は楽しかった。どうやって一、三塁に持っていくかが一番の醍醐味ですよね」。2004年は110試合に出場し、5本塁打、41打点。規定打席には届かなかったが、打率.316をマークした。

 プロ9年目の2005年からは背番号が「3」になった。2004年に引退した八木裕内野手の番号を受け継いだ。「球団から言われたんですが、3番を大切にされていた八木さんがやめてすぐのタイミングでつけていいものか、考えました」。そこで矢野輝弘捕手に相談したという。「『いいんちゃうか』って言ってくれたので、つけたら、後で矢野さんには『つけると思わなかった、断ると思っていたんだけどなぁ』って言われましたけどね」。

 そんな関本氏の“背番号3元年”に岡田阪神は優勝した。落合博満監督率いる中日との争いを制した。なかでも9月7日の直接対決はキーとなる試合だった。試合前時点で1位・阪神と2位・中日の差は2ゲーム。この試合に阪神が勝ち、ゲーム差を広げたのが大きかったが、終盤の大騒動を乗り越えての白星でもあった。「あの試合、勝ったからよかったんですけどね」と関本氏は話した。

 騒動の発端は阪神1点リードの9回表だ。2死満塁で代打の関本氏がライト前へタイムリーヒットを放ち、三塁走者が生還して3-1。さらに二塁走者の中村豊外野手もホームをついた。微妙なタイミングも、審判の判定はアウトだった。これに阪神サイドは抗議。判定は覆らないが、不穏な空気が漂った。そして9回裏にもまた本塁上の判定を巡って大もめとなった。

きっかけは関本賢太郎氏の“自己判断”「僕の痛恨ミスなんですよ」

 無死二、三塁のピンチで中日の打者は谷繁元信捕手。阪神は“1点OK”の守備隊形をとった。ここで谷繁の打球は二塁へのハーフライナー。二塁を守っていた関本氏はそれをショートバウンドで捕り、三塁走者のアレックス・オチョア外野手のスタートが悪いのを見て、ホームへ投げた。これも微妙なタイミングだったが、判定はセーフとなり、阪神サイドは再び激高。平田勝男ヘッドコーチが即座に抗議に走り、暴力行為で退場処分。岡田監督も険しい表情で審判に詰め寄った。

 納得できない指揮官は選手をベンチに引き揚げさせた。阪神・牧田俊洋球団社長が岡田監督を説得したが、あわや没収試合になりかねない事態だった。3-2で試合再開。中日・井上一樹外野手の犠飛で同点とされたものの、延長11回に中村豊が勝ち越しアーチを放ち、阪神が4-3で勝利した。そこから阪神は6連勝するなど、中日を突き放して優勝を飾ったが、関本氏はこの「9・7」を忘れられない。頭に残っているのは騒動の原因となった自身のホーム送球だ。

「内野は下がっていたので、ボールファーストっていう指示があったんですけど、自分の判断でホームに投げました。飛んできたらファーストに投げるって思っていたけど、予想だにしないハーフライナーが飛んできて、アレックスのスタートが悪かったのもわかったので(ホームで)いけると思ってしまったんです。それが最悪のセーフになったってことがねぇ。あの時、僕はベンチの指示を無視して投げたわけですから。そこですよね……」

 このことについて関本氏は昨年(2023年)、再び阪神で岡田監督を支える平田ヘッドコーチに直接、ぶつけたそうだ。「あの時、僕は怒られなかったので、それを聞いたんです。若手だった僕がベンチの指示を無視してホームに投げてセーフにしたのに、どうして注意するなり、怒るなり、何かしなかったんですかって。ずっと引っかかっていたのでね」。これに対して平田ヘッドコーチは自身の考えをきっちり説明してくれたという。

「『指示は確かにファーストだったけど、現場の人間にしかわからない感性とか感覚みたいなのがあって、あの時にホームでアウトにできると踏んだのであれば、その感覚を尊重しなければいけない。結果論でものを言っちゃいけないと思った』というのが平田さんの意見でした。なるほどと思いました。それを踏まえて考えればボールファーストでも、もし走者がこけたら、それでもファーストかって話になるじゃないですか。そこは野手の感性なんですよね」。

「9・7」のケースではホームに投げてセーフとなって失点したのだから「それは結果がすべて。セーフにしてしまったのは、僕の痛恨のミスなんですよ」と関本氏は言う。「何が正解だったんだろうというのは、いまだにありますけどね」と言いながらも「平田さんの言葉で救われました。何十年も経ってからね」。とっさの判断でのホームへの送球。18年が経過しても、関本氏の脳裏に焼き付いている。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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