一瞬で消えた自信「1番下の下でした」 阪神の高卒ドラ2が絶望…新庄剛志から前代未聞の助言

阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】
阪神でプレーした関本賢太郎氏【写真:山口真司】

関本賢太郎氏に新庄剛志が授けた金言「大事なのはユニホームの着こなし」

 鼻をへし折られた。関本賢太郎氏は1996年ドラフト2位で天理高から阪神に入団した。タイガース一筋のプロ野球人生がスタートしたが、愕然とすることばかりだった。高卒1年目からの開幕1軍を目標にしていたが、とんでもなかった。「自分よりも下手な人はひとりもいませんでした」。“虎のプリンス”新庄剛志外野手には予想もしていなかったアドバイスをもらった。怪我にも泣かされた。1軍との実力差は明らかだった。

 1997年、阪神1年目の関本氏はそれなりに自信を持ってプロ生活を始めた。「自分の力以上にアピールしないといけないというより、普段通りにやればいいんだろうなという感じで、タイガースは常に最下位の危機に直面していた時代だったんで、すぐ1軍に行けるだろうなと思っていました」。だが、それはすぐに覆された。「全然違う世界でした。自分よりも下手な人がいませんでした」。

 考えが甘すぎた。「プロで自分がどのくらいのランクにいるのかなって期待があったんですよ。でも、一番下の下でした。開幕1軍を描いていましたが、2軍キャンプ初日で絶望的になりました」。和歌山・南部高からドラフト3位で入団した同期の浜中治外野手を見ても「すごい飛ばすなって思った」そうだが「浜中だけじゃなくてプロでライバルと言ったら全員じゃないですか。その全員をライバル視しようにも遠すぎる感じがしました」。自信は一気に吹き飛んだ。

「浜中と2人で1軍の練習見学に行かされた時があったんですけど、華やかでしたね」とさらに遠く感じた。まずは技術、体力ともに2軍の先輩たちとの差を埋めなければいけない。そのためにはどうすればいいか。そんな時に新庄から食事に誘われて浜中と一緒に行ったという。「新庄さんからアドバイスをもらえたら最高じゃないですか。そういう期待で行ったんですけどね。『大事なのはユニホームの着こなし』って言われました。それは予想できませんでした」。

プロ4年目は自主トレで大怪我も…初の1軍を経験

 何とも奥深い“新庄流”にも触れることができた1年目だったが、2軍成績は80試合に出場して打率.162、1本塁打、7打点。「木のバットへの対応なのか、そもそも体力がなさすぎるのか、ボールが飛ばないっていうのが第1印象。ピッチャーの球がみんな速かった。課題が山積みでした」。2年目は81試合で打率.268、0本塁打、18打点。3年目は96試合で打率.259、5本塁打、33打点。少しずつ数字を伸ばしながらも1軍から声がかかることはなかった。

 4年目の2000年は、1月の競輪学校自主トレで負傷アクシデントにも見舞われた。「野村(克也)監督が『若手何人か、行け』ってことでね。僕は断ったんですけど『監督直々の指名だから行って来い』となって、そこで怪我したんです。自転車のペダルが外れて足首をえぐっていったんですよ」。その後、右足首の脱臼も判明して2月に手術。足首をかばいながらプレーしたことで右肩も痛めてしまった。

 それでも、無理して2軍戦に出場した。58試合、打率.276、9本塁打、31打点。怪我のため試合数こそ少なかったが、過去最高の成績を残して、10月の消化試合ながらついに1軍昇格となった。2000年10月3日の横浜戦(横浜)に「7番・三塁」でスタメン出場。2回の初打席は、奈良県の先輩でもある三浦大輔投手に空振り三振だった。

「1軍で勝っているピッチャーの球を初めて見た。真っ直ぐの軌道、スライダーの曲がり具合とか全然違っていて、チャンスボールがなかったんですよね。これを打たなきゃいけないのかと思った。2軍ではそれなりに打てるようになって1軍に行って、さあ、どうだってところでまた強烈な壁を感じましたね」。この年、1軍では2試合に出場して5打数無安打2三振。まさに甘くなかったプロ野球の世界。試練の日々はさらに続いた。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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