監督から殴られ「バカヤロー」 元HR王、名門の主将任命に“反抗”「やりたくありません」

元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】
元中日・山崎武司氏【写真:山口真司】

山崎武司氏は愛工大名電で通算56HRも甲子園に行けず…2年夏は決勝で惜敗

 元中日、オリックス、楽天の山崎武司氏(野球評論家)は愛工大名電時代に通算56本塁打を放った。強肩強打の捕手としてプロから注目を集める存在だったが、甲子園には1度も行けなかった。最大のチャンスだったのは1985年の「高校2年の夏だった」という。愛知大会決勝で東邦に延長12回の激闘の末、4-8で敗退。「あの時は泣きましたねぇ……」と今でも悔しそうに振り返った。

 愛工大名電で山崎氏は1984年の1年秋から頭角を現したが、甲子園は遠かった。進学前から「甲子園に出て、自分の名前を売って、プロに入る」との“計画”を立てていたが、聖地への切符は3年間、1度もつかめなかった。1年秋は愛知3位で東海大会に進んだが、準々決勝で静岡に敗戦。2年夏は愛知大会決勝で東邦に敗れた。2年秋も愛知大会を3位で通過したが、東海大会準々決勝で浜松商に負け、最後の3年夏は愛知大会5回戦で東邦の前に0-5で散った。

 この3年間で山崎氏にとって、最も悔しかったのが1985年の2年夏という。この大会の愛工大名電は2回戦から登場して碧南を10-0、3回戦は尾北を7-1で退け、4回戦で名古屋学院に9-1、5回戦は碧南工を10-0と圧倒的な強さで勝ち進んだ。そこからは熱戦続き。準々決勝では近藤真一投手(元中日)を擁した享栄を延長10回4-2で下し、準決勝の中京戦は2-4の9回に3点を奪っての逆転サヨナラ勝ちだった。

「あの夏はホント激闘で、エースの福田(一成)さんはこの大会だけで10何キロもやせたって言っていましたよ。俺も10キロ弱はやせた。もう精根使い果たしたくらい疲れました」と山崎氏は話す。それだけに延長12回4-8で敗れた決勝の東邦戦は悔しかった。「4-4の9回裏、あと1球、ボールだったら甲子園だったんですよ」。その回、名電は2安打1四球で無死満塁の大チャンスだったが、ここからあと1本が出なかった。東邦・田中大次郎投手に踏ん張られた。

 遊ゴロと浅い中飛で2死満塁となって打者は4番の杉浦守外野手(元巨人)。カウントは3ボール。あと1球ボールなら押し出しサヨナラとなるところで、2球続けて見逃して、いずれもストライク。フルカウントから杉浦は遊ゴロに倒れて延長戦に入り、12回表に4点を失っての負けだった。「ナゴヤ球場で、もう泣きましたよ。正直、この2年の夏が一番、甲子園のチャンスだと思っていた。冬を越えてすごく強くなっていたから。でもうまくいかなかったよね」。

 この時のエースで山崎氏より1学年上の福田氏は現在、株式会社東海理化トウホクの代表取締役社長。「今年(2024年)、福田さんに30何年ぶりに会って高校時代の話をすることがあったんだけど『お前はひどかったなぁ。中京戦では、気に入らない先輩のバッターのスパイクにずっと砂をかけて、言い合いになっていたよな』って。それは全然、覚えていなかったけど、まぁ、俺も生意気なことを先輩たちにも言っていたからね」。

最上級生で務めた主将…当初は難色も「嫌々、やりました」

 そんな山崎氏は愛工大名電・中村豪監督に1度だけ殴られたことがあったという。2年夏後の新チームの主将に任命された時のことだ。「3年生の先輩たちが次のキャプテンを指名したんだけど、俺はチームワークとかチームバランスとか一切考えない人。俺が打ってチームを勝たせる、俺が打てばいいんでしょっていう考え方だったから、監督に言ったんです。『やりたくありません』って。それまで断るヤツなんて誰ひとりいなかったはずですよ」。

 その時だった。「監督に『なんでやりたくないんだ』と聞かれたので『自分の野球ができなくなるのが嫌です』と答えたら『バカヤロー』って1発。監督には好き勝手やらせてもらったけど、殴られたのは後にも先にもその1回だけですけどね。それで嫌々、やりました。副キャプテンがバックアップしてくれたし、キャプテンらしいことは何もしていないけどね。とにかく俺が打つから、お前ら俺の前にランナーに出ろ、って感じでね」。

 実際、高校通算56本塁打のバットでは頼もしい姿を何度も見せつけた。「負けたら秋の県大会にも行けなくなる試合で終盤まで3点差をつけられていた。監督は『もう知らん』って怒っちゃって……。で、俺がウエイティングサークルにいた時に満塁になった。そしたら同級生がパパッとやってきて『武司、頼むから打ってくれ。ここでお前が打たなかったら地獄の冬練だよ』って。『おう任せとけ、打ったるわ』と言って逆転満塁ホームランを打ちましたね」。

 すさまじいばかりの打棒だったが、いいことばかりではなかった。「2年秋の東海大会で浜松商に負けたけど、あれは俺のせいなんですよね。チャンスでダブルプレー。それで選抜に行けなかったんでねぇ……」と山崎氏は申し訳なさそうにも話した。最後の夏は5回戦で東邦に負けて終了。「みんな泣いていたけど、あの時は東邦との力の差を感じて、俺はかけらも泣けなかった。『泣くな! 帰るぞ!』ってね」。いろんなことがあった高校時代。その思い出は尽きないようだ。

「2年生くらいから、けっこうホームランもポンポンと打てるようになったし、スカウトの人も見に来てくれるようになっていたので、もう明確に俺はプロに行くんだと思っていましたね」。甲子園には行けなかったが、恩師の中村監督からの教えなど、すべてが山崎氏にとって財産。高校野球を終え、目標のプロ野球の世界に飛び込む準備が完了した。

(山口真司 / Shinji Yamaguchi)

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